岩橋千塚古墳群の歴史
このページは、私が学んできたことや私の考えを蓄積・整理することを目指しています。詳しくは 私の理由をご覧ください。
項目
古墳時代以前
旧石器時代 / 海面
弥生時代 / 弥生時代の始まり / 米と小麦粉の栄養価 / 弥生時代の概略 / 日本列島の弥生時代の国々 / 後漢への朝貢 / 弥生時代の倭から中国王朝への使節のまとめ
古墳時代
あらまし / 「古墳時代」の定義と区分 / クニの連合と前方後円墳 / なぜ奈良盆地だったのか
朝鮮半島の状況 / 加耶諸国 / 概略 / 金官加耶 / 百済 / 概略 / 七支刀 / 新羅 / 概略 // 高句麗 / 概略 / 好太王碑
倭と朝鮮半島の関係 / 概略 / 朝鮮半島から日本列島に渡来したもの / 新しい技術を持ち込んだ渡来人
大型古墳 / 3世紀 / 4世紀 / 5世紀 / 6世紀 / 私のまとめ
古墳時代以降
古墳時代以前
旧石器時代
海面
私は次のことを学びました。
- 旧石器時代のあいだ、地球の気候は現在よりずっと寒く、たくさんの水が氷や雪として大陸の上にとどまっていた。
- 海面は今日よりはるかに低く、ゾウを含む大型動物が現在の瀬戸内海に生息していた。
旧石器時代の自然環境は岩橋千塚とは直接に関係しているようには思われません。けれども、大陸からの最初の人々が、この時代に、古日本列島に来たことを覚えておく必要はあると思います。
縄文時代
時代区分
縄文時代は一般的に次の6つの時期に分けるようです。
- 草創期: 16,500年前から11,500年前
- 早期: 11,500年前から7,000年前
- 前期: 7,000年前から5,500年前
- 中期: 5,500年前から4,400年前
- 後期: 4,400年前から3,200年前
- 晩期: 3,200年前から2,300年前
◇ 日本の縄文時代は世界的に言えば「新石器時代」に相当するとのことです。
概略
-
およそ11,700年前地球環境が大きく温暖化したとき、日本列島周辺の自然環境もまた温帯性のものへと変化した。完新世の始まりであった。
- 海面が上昇し、日本列島は完全に大陸から切り離された。
- 大型動物は絶滅し、シカやイノシシのような中型動物が多く棲息するようになった。
-
縄文人は狩猟採集民であった。
- 中型動物や小型動物を、落葉広葉樹や常緑広葉樹の森で弓矢などをつかった狩りをした。
- 貝類を含む魚介類を漁り、山菜を集めた。
- 「縄文土器」と呼ばれる土器で食物を調理することができた。
- 戦争をしなかったといわれている。
-
縄文時代は9,000年ものあいだ続いた。
- 言い換えると、90世紀ものあいだ継続したのである。
- 縄文時代の環境は常に同じというわけではなく、やや寒冷な時期もときどきあった。
- 海面はおよそ7,000年前頃まで上昇し続け、ピーク時には現在よりも数メートル高かった。その結果、河口に平坦地が形成された。
- 火山活動を含む気候変化は人々の生活に直接に影響した。自然に対する畏れの感情をもっていたにちがいない。
弥生時代
弥生時代の始まり
およそ2,500年前、水稲農耕が朝鮮半島九州北部に導入された。それが日本の弥生時代の始まりでした。
その新しい農業に詳しい人々が大陸から移住したのかもしれません。縄文人はきっと大量の栄養豊富な穀物を見てすっかり驚いたにちがいありません。そして、ある人たちはその新しい農業の技術を獲得しようと決心したのかもしれません。
北部九州でのその先進的な実験のあと、水稲栽培は紀元前4世紀までに西日本に広がり、それから東日本に伝播しました。なので、弥生時代の開始時期は地方ごとにことなります。
米と小麦粉の栄養価
- 玄米100グラムあたり、353kcalの熱量と6.8グラムのたんぱく質が含まれている。
- 白米100グラムあたり、358kcalの熱量と6.1グラムのたんぱく質が含まれている。
- 白米めし100グラムあたり、168kcalの熱量と2.5グラムのたんぱく質が含まれている。
- 小麦粉(薄力粉)100グラムあたり、367kcalの熱量と8.3グラムのたんぱく質が含まれている。
- 食パン100グラムあたり、265kcalの熱量と8.5グラムのたんぱく質が含まれている。
弥生時代の概略
弥生時代についての私の基礎的な知識は次のとおりです。
- 栄養豊富な米はそれまでよりも大きな人口を支え、また水稲栽培は集団作業を必要だったので、弥生人たちは水田のそばの村で暮らした。
- 弥生時代に使われた土器は「弥生土器」と呼ばれる。
- 農業共同体の社会は効果的に組織され、その首長は農業生産の指揮、豊作願う儀式、そして外敵に対する安全保障を担った。
- 弥生時代後半には、鉄製農具が農業生産を大いに高めたので、石器はもはや作られなくなった。
- 村々はクニへと発展した。
- そのクニ同士ははときどき戦争を行った。天候不順で食料不足になったとき、他クニの備蓄米を求めて戦ったにちがいない。
- 北部九州のクニが鉄の輸入を独占していて、他地方のクニは連合することによって、より多量の鉄を確保しようとしていたのだろう。
- その同盟は中国との朝貢関係を持つ一つの大きなクニに発展した。
日本列島の弥生時代の国々
弥生時代の日本列島の様子について次のことを学びました。
- 中国前漢の正史である『漢書』地理志は次のことを述べている。
- 紀元前1世紀ころの倭人社会は、中国王朝から「国」と認識された100余の集落連合から構成されていた。
- その中には定期的に朝鮮半島の楽浪郡に朝貢したクニも存在した。
これらのクニは九州北部にあったと考えられているようです。この情報をもとに私は次のように考えます。
- 紀元前1世紀にはすでに、九州と朝鮮半島南部の海路は確立していた。
- 直線距離でおよそ200km、壱岐と対馬を経由して漕いで3日で、風があればもっと短時間で行けたのかもしれない。
- 舟と航海術を持っていたはずだ。
- 紛争などの記述がない以上、平和裏に行き来していたにちがいない。
- 稲作導入からおよそ400年後、強力な首長(王)が存在し、クニをまとめていた。中国との外交を考えるほどであるから、社会も安定していたのだろう。
- 朝貢の目的については、私には簡単に決めつけられないと思う。
後漢への朝貢
『後漢書』東夷伝は次のように述べている。
- 57年に、倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむいて光武帝から印綬を受けた。
- 107年には、倭国王将帥等が生口160人を安定に献じた。
奴国は今の福岡市付近にあったクニで、同市の志賀島からは倭の奴国の王が光武帝からさずかったものと考えられる金印が発見されているとのことである。
弥生時代の倭から中国王朝への使節のまとめ
弥生時代における中国王朝への倭からの使節派遣のリストは次のようになります。
- 57年、倭奴国王が後漢に使節を送り、光武帝(Emperor Guangwu)が印綬を授けた。
- 107年、帥升を含む王たちが後漢に使節を派遣した。
- 238年、魏が帯方郡を支配し始めた。
- 239年、倭国女王卑弥呼が帯方郡と魏の都に使節を送った。魏の明帝(Emperor Ming of Wei)が卑弥呼に親魏倭王の称号と金印紫綬を与えた。
- 243年、卑弥呼が魏王に貢ぎ物をした。
- 245年、魏の皇帝が倭からの使節に物を与えた。
- 266年、倭の女王台与が晋王朝に使節を派遣した。このあとの147年間、倭と中国王朝との外交関係はなかった。
クニ同士の争乱を終わらせようとしていた倭の王たちは、中国王朝からの後ろ盾を確かなものにすることによって、自らの立場を強くすることを狙っていたのかもしれません。
古墳時代
定義と時代区分
古墳時代は「定型化した前方後円墳が築かれた時代」と定義されています。その時代区分は次のとおりです。
- 古墳時代前期
- 3世紀中頃から4世紀末まで。
- 古墳時代中期
- 4世紀末から5世紀末。
- 古墳時代後期・終末期
- 5世紀末から7世紀世紀。ただし、終末期は飛鳥時代と重なる。
クニの連合と前方後円墳
日本列島西部のクニがゆるやかな連合を形成し、定型化した前方後円墳はその連合の象徴であると考えられています。
このページの大型古墳一覧が示している古墳時代前期の奈良盆地東南部への大型古墳集中を考慮すると、クニの王たちの同盟はきっとそこで始まったにちがいありません。
そのことが意味するのは、その連合が最初に奈良盆地内だけの小国だけで形成され、それから他の地方のクニの王たちがその最初のヤマト中心の連盟に参加したということでしょう。
その連合の目的の一つは、すでに「弥生時代の概略」で述べたように朝鮮半島から鉄を輸入することだったと考えられています。
さらに、私が疑問には次のような三つの疑問が浮かんできます。
- なぜその連合は奈良盆地で始まったのか?
- 奈良以外のクニはどのようにあその同盟に加わったのか?平和的にか、それとも強制的にか?
- 紀の川河口の勢力はどのようにいつその連合に加わったのか?
これらについての私の意見は別に項目をつくることにします。
なぜヤマト王権が始まったのは奈良盆地だったのか。
なぜ日本列島のなかでもっとも朝鮮半島に近い九州北部でクニが発展したのかを理解するのは簡単であるにちがいありません。けれども、なぜ倭国(古代日本)で最初の中央集権政府が奈良盆地で樹立されたのでしょうか。偶然の出来事ではなかったはずです。ここで気になる次の二つの点を挙げておきます。
-
地形的条件
- 四つの河川(佐保川、初瀬川、飛鳥川、そして葛城川)が奈良盆地の中央部で大和川に流れ込み、その水は大阪府の河内平野を通って大阪湾へと流れる。
- 盆地の中心部は氾濫原だが、その低地と周囲の山の間には扇状地が広がっている。
- 関西地方には、大阪府の河内平野以外を除くと、そのような高く乾燥した土地(高燥地)はないと言われている。
- 盆地には、津波の心配はない。
-
地理的条件
- 奈良盆地からの九州北部への距離も関東平野北部への距離も約500km。奈良盆地は双方の地域の中間点にあたる。
- 奈良盆地から大阪湾への歩行距離は約40km、伊勢湾までだと約85km。このことは海路を含む流通網の配送拠点として奈良盆地が重要な役割を担えたかもしれないことを意味する。
ヤマト王権
私の思い出
今から50年以上前、私の世代の中学生は「4世紀の大和朝廷」と習い、「古墳時代」という用語はまだ使われていませんでした。異なるご意見の学者もおられるようですが、「ヤマト王権」「古墳時代」という語が定着してきています。言い換えると、この50年間で、古代に関する研究が多くのさまざまなことを明らかにしてきていると言えるでしょう。
岩橋千塚古墳群はヤマト王権と密接に関係がありますので、私にはその日本列島最初の中央集権政府についての情報を収集する必要があります。それぞれのテーマについて私が学んでいることは次のようになります。
概略
- ヤマト王権は3世紀後半以降に奈良盆地で成立したゆるやかな連合。その首長が天皇と呼ばれるようになったのは7世紀の後半と言われる。
- 8世紀中頃に使われ始めた国名との混同を避けるためによくカタカナで書かれる。「大和政権」とも呼ばれる。
- まず、奈良盆地南東部の首長/王たちが、他の地域の首長/王たちとの連合の基盤となる連合を形成したようだ。
地名「ヤマト」
- 古くは「倭」などと書き、「やまと」を呼んでいた。第43代元明天王(在位 707–715)の治世に、国名は好字二字を用いることが決められ、「倭」と同じ読みである「和」の字に「大」をつけて、「やまと」と読むようになった。
- ヤマト王権の拠点があった奈良盆地南東部はもともと「やまと」と呼ばれていた。それが、757年に「大和」が現在の奈良県にあたる地域の正式な国名となった。
朝鮮半島の状況
新石器時代終了以来、朝鮮半島の状況が日本に深く影響したことはいうまでもないでしょう。古墳時代においても、ヤマト王権は鉄資源を半島にたよっていましたから、半島における国々の勢力争いは日本の原始中央政府にに直接に影響したのです。 ここで、それらの国々のことを簡単に復習しておきたいと思います。
私が学んだことの要点は次のようになります。
加耶諸国
概略
- 加耶諸国は1世紀から6世紀中頃にかけて存在した朝鮮半島の中南部(現在の慶尚南道とその周辺)の小さな国々。
- いろいろな名前で呼ばれる。
- この地域は鉄資源と良好な港に恵まれ、倭国(古代日本)はそこから船で鉄資源輸入した。
- 加耶諸国は新羅や百済に併合され、562年に滅亡した。
金官加耶
- 3世紀、慶尚道地域は馬韓の一部と辰韓の一部を含み、それぞれの連合体は十二の国々で成り立っていた。そのうちの馬韓の一国が金官加耶に発展した。
- 金官加耶に関する記録はとても限られているなか、『三国遺事』に引用されている「駕洛国記」が貴重とのことである。
- 『三国史記』の記事をもとに、金官国の滅亡は532年のことと一般に考えられている。
- 金官加耶では、大成洞古墳群から多くの鉄鋌(鉄製品の材料)が出土し、5世紀半ばから6世紀初めの製鉄集落も見つかっている。その発展の基盤は鉄生産であったと考えられている。
百済
概略
- 四世紀半ば,馬韓北部に成立した。
- 四世紀後半(366年か367年)に、百済と倭とが、軍事的同盟関係に入ったと一般的にみられている。それを記念して作られたのが七支刀である。その関係は基本的に6世紀初めまで続いた。
- 475年に、高句麗に圧迫され半島西南部のへ熊津(ゆうしん、ウンジン)に移動した。
- 538年に、泗沘(しび、サビ)に遷都した。
- 王族は高句麗と関係があるといわれている。
- 百済は、日本との関係が深く、仏教など大陸文化を伝えるなど,日本古代文化の形成に大きな影響を与えた。
- 660年に唐・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた。
七支刀
- 奈良県天理市石上神社所蔵の古代の鉄剣。長さ75㎝。刀身の左右に三本ずつの枝刀が出ている。
- 1870年代、石上神宮の宮司が剣の側面にわずかに光る金象嵌に気づき、錆を落としていくつかの文字を解読した。
- 369年、近肖古王の太子がその剣を作った。この年、百済は高句麗との戦争中で、太子は彼の軍隊の先頭に立っていた。
- 371年、百済の王と太子は平壌城を攻撃し、高句麗の王は戦死した。
- 『日本書紀』には372年に百済が七支刀を倭に献上したと書いてある。
- 百済は高句麗との決戦に備えて倭との同盟を意図していたようである。
新羅
概略
- 朝鮮最初の統一王朝。
- 4世紀半ば(356年)、朝鮮半島東南部の辰韓12ヵ国を統合して斯盧(しら)国が新羅を建国した。
- 7世紀半ば、新羅は唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼしたあと朝鮮半島の統一を達成した。
- 新羅は唐に倣って、政治の中央集権化をすすめた。
- 935年、敬順王(新羅最後の王)は高麗の王建に服従した。
高句麗
概略
- 古代朝鮮の三王国の一つ。
- 扶余族の一支族の王、朱蒙が紀元前1世紀までに建国した。
- 313年、高句麗は楽浪群を滅ぼし、朝鮮半島北部を領有した。
- 427年、平壌に遷都。
- 高句麗は、4世紀末から6世紀にかけて、広開土王と彼の2代の後継者の時代に最盛期を迎えた。
- 668年、高句麗は唐と新羅の連合軍に敗れた。
好太王碑
- 414年、高句麗の長寿王が6.3mの石碑をたて、彼の父(好太王)の功績を刻んだ。次の内容を含んでいる。
- 399年、新羅が倭の侵入を理由に軍事介入を求めたこと。
- 400年、好太王は5万人の軍隊を派遣し、韓韓国まで倭軍を追い詰めたこと。
- 好太王は64の城と1,400の村を奪取したこと。
- 好太王が奪った城と村の大半は百済のものだった。
- 高句麗に敗れたあと、倭にできることは中国との代行関係に新しい道をみつけることだけだった。
倭と朝鮮半島との関係
概略
金官加耶をとりまく状況と七支刀や好太王碑に書かれていることを考慮すると次の事柄は事実だったと考えられます。
- 古墳時代以降、鉄を産出し輸出する加耶諸国は倭にとって生命線だったこと。
- 倭では古墳時代だったとき、高句麗、百済、新羅、そして加耶諸国の間には緊迫した関係が存在し、倭と朝鮮半島との関係も高かったこと。
- 4世紀の後半に高句麗と対峙してしていた百済が倭に七支刀を贈ったことを考えると、朝鮮半島南部における倭の存在感はそのころすでにかなり高かったこと。
- 5世紀初頭頃に倭がその軍事力を実際に行使したこと。
けれども、その二つの記録には倭の国内状況に関することが何も含まれていませんので、古墳時代の国内状況を探るには別の方法を使う必要があります。
朝鮮半島から日本列島に来たもの
古墳時代、倭(古代日本)には朝鮮半島からさまざまなモノやコトが導入されたと考えられます。手に入る情報をもとにそのリストを掲げておきます。
- 稲作
- 稲作の日本への到達経路にはさまざまな説があるが、考古学的には、中国の河南地方から北上して、山東半島から朝鮮半島南部につたわり、九州北部に伝来したとする説が有力。稲作は、弥生時代のあいだに本州北端まで広がった。
- 鉄器
- 約6,000年前にすでに隕鉄が使われていた。約4,000年前に、アジア西端部で、鉄の精錬が始まった。中国では前5世紀頃、精錬した鉄が普及した。朝鮮半島では、紀元前300年頃、鉄器が普及した。日本列島では、弥生時代に鉄器が導入された。
- 須恵器(すえき)
-
須恵器は、高温(1,000度以上)で焼成する陶製品。古墳中期、朝鮮半島加耶地方の技術者が渡来して生産が始まった。大阪府南部の陶邑(すえむら)で5〜6世紀に集中的に作られた。この技術が日本の陶磁器生産につながった。
- 竈(かまど)
- 竪穴住居の壁際に粘土で設置する竈は、5世紀前半に朝鮮半島から伝わり、炉のかわりに急速に広まった。
- 甑(こしき)
- 甑は米などの食物を蒸す調理道具。古墳中期に朝鮮系の須恵器製が登場した。祭のときなど特別な時に使われたらしい。
- 牛
- 弥生時代の遺跡からウシの骨などが見つかっているが、その数は少ないようだ。
- 牛が日本で広まったのは5世紀半ばだった。農耕、灌漑などの土木技術、乗馬などを伝えた朝鮮半島からの人々が牛も連れて来たとみられている。
- 馬
- 馬は古墳時代に朝鮮半島から導入されたと考えるのが妥当のようだ。4世紀の終わり頃、高句麗の強力な騎馬兵と戦ったあと、戦いに馬を使う必要がると倭の人たちは考え始めたにちがいない。
- 機織り
- 地機は朝鮮半島からつたわったと考えられているが、その時期はよくわからない。
- 暦法
- 暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わった。ヤマト王権は暦法や天文地理を学ぶために、僧を招き604年に日本最初の暦が作られたと伝えられている。
- 仏教
- 6世紀の中頃(538年説が有力)、欽明天皇の時に、百済の聖明王が仏像と経典を遣わしました。
- 土木技術
- 比較的大きな河川に堰を設けて取水する方法が確立するのは渡来人の新たな技術によるものと推測されている。
新しい技術を持ち込んだ渡来人
上述の朝鮮半島からの新しい技術は渡来人が日本列島に持ち込んだに違いありません。このことについて、私は次のことを学んでいます。
- 5世紀の倭では、朝鮮半島由来の技術が手工業を革新するために頻繁に使われた。
- 古代日本への最初の移民の波は4世紀後半から5世紀前半にあった。渡来人はその後も途絶えないで、7世紀後半の百済からの遺民や新羅からの難民まで続いた。
- 新しい開発技術を持つ渡来人もいたにちがいない。新たな土木技術の到来が5世紀にあることも考古学的に疑問の余地がない。
倭と中国王朝の関係
倭の五王
中国の正史には、5世紀の倭の五王による遣使についての記録が書かれているとのことです。
王たちには、日本列島だけではなく百済・新羅を含む朝鮮半島南部での軍事的支配権の行使を宋王朝に認めさせるねらいがあったと言われています。また、実際に、王たちは「将軍」として任命されています。
確実であったと考えられている年・王名・称号は次のようになります。
年 | 王名 | 称号 |
421 | 讃 | - |
425 | 讃 | - |
430 | - | - |
438 | 珍 | 安東将軍 |
443 | 済 | 安東将軍 |
年 | 王名 | 称号 |
451 | 済 | 安東大将軍 |
460 | - | - |
462 | 興 | 安東将軍 |
477 | - | - |
478 | 武 | 安東大将軍 |
倭の五王の比定
「倭の五王」の頃の天皇等名、その陵、現在の比定などをまとめておきます。
代 | 諡号 | 古墳(治定) | 比定など | 備考 |
---|---|---|---|---|
14 | 仲哀 | 岡ミサンザイ? 245m、藤井寺市 |
- | 倭建命の御子 | - | 神功皇后 | 五社神 267m、奈良市 |
仲哀大后、応神の母 | 遠征して新羅を破る? | 15 | 応神 | 誉田御廟山 425m、羽曳野市 |
「讃」説あり | 仲哀の御子 | 16 | 仁徳 | 大仙陵 486m、堺市 |
「讃」・「珍」説あり | 応神の御子 | 17 | 履中 | 上石津ミサンザイ 365m、堺市 |
「讃」説あり | 仁徳の御子、大仙 陵より先の造営か? |
18 | 反正 | 土師ニサンザイ 290m以上、堺市 |
「珍」説あり | 仁徳の御子 | 19 | 允恭 | 市ノ山古墳 227m、藤井寺市 |
「済」に比定 | 仁徳の御子 | 20 | 安康 | 古城1号墳? 奈良市、中世の山城か |
「興」に比定 | 允恭の御子 | 21 | 雄略 | 高鷲丸山・平塚? 羽曳野市 |
「武」に比定 | 允恭の御子、ワカタケルか |
22 | 清寧 | 白髪山 115m、羽曳野市 |
- | 雄略の御子 |
23 | 顕宗 | 築山? 210m、大和高田市 |
- | 父は履中の御子 |
24 | 仁賢 | 野中ボケ山 122m、藤井寺市 |
- | 父は履中の御子 |
25 | 武烈 | 新山? 126m、奈良県広陵町 |
太子がいなかった | 仁賢の御子 |
26 | 継体 | 今城塚? 190m、高槻市 |
治定は太田茶臼山 | 応神の五世王 |
日本の大型古墳
岩橋千塚古墳群の歴史を考えるとき、古墳時代の日本列島の歴史状況を知ることが有益なことは明白でしょう。大型古墳の分布がヒントになるにちがいありません。200m以上の古墳のリストは次のようになります。(古墳名は宮内庁治定の陵墓を示します。)
3世紀
地域 | 古墳名 | 全長 | 時期 | 古墳群名 | 所在地 |
奈良盆地南東部 | 箸墓 | 276m | 3C中頃 | 纏向 | 桜井市 |
〃 | 桜井茶臼山 | 208m | 3C後半、箸墓のあと | 鳥見山 | 〃 |
〃 | 西殿塚 | 234m | 3C後半 | 萱生 | 天理市 |
〃 | メスリ山 | 230m | 3C後半から4世紀初頭 | 鳥見山 | 桜井市 |
4世紀
地域 | 古墳名 | 全長 | 時期 | 古墳群名 | 所在地 |
奈良盆地南東部 | 行燈山 | 242m | 4C前半 | 柳本 | 天理市 |
〃 | 渋谷向山 | 300m | 4C後半 | 〃 | 〃 |
〃 | 島の山 | 200m | 4C末から5C初め | 馬見 | 奈良県川西町 |
〃 | 巣山 | 204m | 4C末から5C初め頃 | 馬見 | 奈良県広陵町 |
奈良盆地北部 | 佐紀陵山 | 207m | 4C後半 | 佐紀盾列 | 奈良市 |
〃 | 佐紀石塚山 | 218m | 4C後半 | 〃 | 〃 |
〃 | 五社神 | 275m | 4C | 〃 | 〃 |
大阪府南河内 | 津堂城山 | 210m | 4C後半 | 古市 | 藤井寺市 |
〃 | 仲津山 | 290m | 4C末頃 | 〃 | 〃 |
大阪府泉南 | 摩湯山 | 200m | 4C後半 | - | 岸和田市 |
京都府 | 網野銚子 | 201m | 4C末から5C初頭 | - | 京丹後市 |
5世紀
地域 | 古墳名 | 全長 | 時期 | 古墳群名 | 所在地 |
奈良盆地南西部 | 室宮山 | 240m | 5C前半 | 葛城 | 御所市 |
〃 | 築山 | 208m | 5C | 馬見 | 大和高田市 |
〃 | 新木山 | 200m | 5C前半 | 〃 | 奈良県広陵町 |
奈良盆地北部 | 宝来山 | 226m | 5C初め | 佐紀盾列 | 奈良市 |
〃 | コナベ | 204m | 5C前半 | 〃 | 〃 |
〃 | ヒシャゲ | 219m | 5C中頃から5C後半 | 〃 | 奈良県佐紀町 |
〃 | ウワナベ | 255m | 5C中頃 | 〃 | 奈良市 |
〃 | 市庭 | 253m | 5C | 〃 | 〃 |
大阪府南河内 | 墓山 | 225m | 5C初め | 古市 | 羽曳野市 |
〃 | 誉田御廟山 | 425m | 5世紀前半 | 〃 | 〃 |
〃 | 市ノ山 | 230m | 5C中頃から5C後半 | 〃 | 藤井寺市 |
〃 | 岡ミサンザイ | 245m | 5世紀後半 | 〃 | 〃 |
大阪府泉北 | 上石津ミサンザイ | 365m | 5世紀前半 | 百舌鳥 | 堺市 |
〃 | 大仙陵 | 486m | 5C中頃 | 〃 | 〃 |
〃 | 土師ニサンザイ | 300m | 5C後半 | 〃 | 〃 |
大阪府三島 | 太田茶臼山 | 226m | 5C | 三島 | 茨木市 |
大阪府泉南 | 西陵 | 210m | 5C前半 | 淡輪 | 大阪府岬町 |
岡山県 | 造山 | 350m | 5C前半 | - | 岡山市 |
〃 | (三須)作山 | 282m | 5C中頃 | - | 総社市 |
群馬県 | 太田天神山 | 210m | 5C前半 | - | 太田市 |
6世紀
地域 | 古墳名 | 全長 | 時期 | 古墳群名 | 所在地 |
大阪府南河内 | 河内大塚山 | 335m | 6C中頃かそれ以降 | 古市 | 松原市 |
奈良盆地南部 | 見瀬丸山 | 330m | 6世紀後半 | - | 橿原市 |
私なりのまとめ
岩橋千塚古墳群の被葬者に直接に関係がありそうですので、ヤマト王権と朝鮮半島の関係に私は興味があります。
日本と朝鮮半島の関係を見るまえに、私にはヤマト王権そのものを適切に理解する必要がありまが、大型古墳の分布状況にはそのヒントが含まれているように感じます。
大型古墳のリストから私がわかったことは次のようになります。
-
5世紀における古墳の大きさと数を考えると、その時代に人口増加があったにちがいない。その理由は少なくとも二つあげられるだろう。
- 農地の拡大と収穫量の増大につながった鉄器の普及。
- 摂取栄養の改善につながった蒸し器(甑)や竈などの新しい調理道具の導入
- 大型古墳の分布は、初期の皇室がいくつかの系統に分かれたことを想像させる。厳しい派閥争いがあったのかもしれないが、古墳自体はそのことについての何も語ってはいない。
- しかしながら、大型古墳の分布はその後継者争いの結果を示しているのかもしれない。陵墓の位置をあわせて考えると、その推移はつぎのようになるだろう。
- 3世紀中頃から4世紀後半まで、奈良盆地南西部の柳本古墳周辺地域 。(最初のヤマト王権)
- 4世紀後半から5世紀の初めまで、奈良盆地北部の佐紀盾列古墳群周辺地域 (奈良盆地南西部の馬見古墳群域からの指導者も政権において重要な役を果たしたにちがいない。)
- 5世紀の前半から6世紀中頃まで、現在の大阪府南部の百舌鳥・古市古墳群周辺地域。
- 6世紀中頃以降、奈良盆地最南部の飛鳥地域。