このページは岩橋千塚古墳群に関する大切な情報を提供するをねらいとしてます。内容は次の三つに分けられています。
キーワード
「特別史跡」
岩橋千塚古墳群は国の特別史跡に指定されています。
文化庁によりますと、現在1,895件が「史跡」に指定されていて、その「史跡」のうち特に重要な63件が「特別史跡」に指定されているそうです。
金閣寺や姫路城も「特別史跡」に指定されているとのことです。
「900」
岩橋千塚古墳群には多数の古墳があり、その数は900と言われています。岩橋千塚古墳群は日本でも有数の古墳群なのです。さらに、 その総数は増えるかもしれません。実際、2022年に博物館の近くで四つの石室が新たに見つかっています。
「6世紀」
私はつぎのことを学びました。
- 古墳群の多くは古墳時代後期(おおまかに言えば6世紀)に出現しました。岩橋千塚古墳群もそのうちの一つです。
- 岩橋千塚古墳群には4世紀以降に築造された古墳もありますが、大多数は6世紀に集中してつくられました。
- 古墳時代前期と中期にはもっとも身分の高い人たちだけが自分たちの古墳を持ちましたが、古墳時代後期になると、それまで古墳を持つことが許されなかった階層の人たちが自分たちの古墳を持ちはじめました。
きっと6世紀初めに社会環境が大きく変化したにちがいありません。
「岩橋型横穴式石室」
特徴的な石でできあがった独特の構造が岩橋千塚古墳群の石室を特徴づけています。「岩橋型」ということがその形式を表しています。その様式は、石室の形、材料、築造方法などに違いがあります。その方法は大阪や奈良を含む近隣の地域では見られません。和歌山県の北部抱けて行われる方法なのです。
古墳時代
日本で「古墳」と呼ばれる墳墓
専門用語「古墳」
「古墳」という言葉は文字どおり「古い墳墓」という意味ですが、多くの皆さんは毎日の生活場面ではその意味でお使いの琴でしょう。
けれども、その語が歴史学や考古学の分野で使われると、専門用語となり、「古墳時代に築造された墳墓」という定義になるそうです。他の時代に作られた墳墓はことなる名称で呼ばれるのだそうです。
日本古墳の形
古墳にはいくつかの異なる形状があります。前方後円墳が代表的で、その他に、前方後方分、円墳、方墳などが続きます。
「前方後円墳」は。英語で「keyhole-shaped kofun(鍵穴形古墳)」と呼ばれますが、日本語では「方形部分が前、円形部分が後」という理解を表現していることになります。岩橋千塚古墳群では「前方後方墳」は見つかっておらず、大半が円墳となっています。
形と大きさ
私は古墳の形と大きさについての有力な説を次のように学びました。
- 古墳の形と大木社被葬者の社会階級と政治権力に基づいているにちがいない。
- 前方後円墳が最高位であり、以下、前方後方墳、円墳、方墳の順になっていたと考えられる。
- 同じ形の中では、古墳が大きいほど、政治的権力が大きかったにちがいない。
日本でいちばん大きな古墳
日本でいちばん大きな古墳は大阪府堺市にある全長486mの仁徳天皇陵です。全長486mです。仁徳は第十六代の天皇で、実在していたとすれば、4世紀末から5世紀前半にかけて在位していたと考えられているようです。日本にあるおよそ16万基の古墳のうち40基ほどが200mを越えているそうです。
日本の古墳時代
時代の順序
古墳時代までの時代の流れについての私の基本的な理解は次のとおりです。
- 旧石器時代、単一の島(古本州島)に暮らす人々は大型動物の狩りをしていた。.
- およそ13,000年前頃、人々は温暖になった自然環境に適応しはじまた。それが(世界的には新石器時だと呼ばれる)日本の縄文時代の始まりだった。
- 縄文人は基本的に狩猟採集民だった。
- およそ3,000年前に、水稲耕作が朝鮮半島から北部九州に導入された。それが弥生時代の始まりだった。
- 特に西日本では、その栄養豊かな穀物のおかげで、人口が増えた。
- その結果、階層性を伴う村々が営まれた。その首長は農業生産、宗教儀式、共同体の安全に関する指揮をおこなった。
- それらの村々は次第に小さな独立したクニになっていった。
- 弥生時代の終わりには、強力な大きな国々が現れ、そのうちの有力な首長たちは、共通の利益(鉄など)のためにお互いに同盟関係を結んだ。
- 3世紀中頃、同盟国の王たちは、自分たちの同盟のシンボルとして前方後方墳を築造しはじめた。それが古墳時代の始まりだった。
古墳時代の四つの区分
古墳時代の区分と、その概略についての私の理解は次のとおりです。古墳時代終末期は飛鳥時代と重なります。
- 古墳時代前期(3世紀中頃から四世紀末まで)
- 古墳時代中期(4世紀末から5世紀の終わりまで)
- 古墳時代後期と終末期(6世紀から7世紀)
前期
- とても大きな前方後方墳が奈良盆地に出現した。
- 埋蔵施設は竪穴式石室だった。
- 服装遺品は鏡、玉、石器、鉄製農具、鉄器などだった。
中期
- 日本各地で大型の前方後円墳が築造された。
- 副葬品として、馬具、甲冑、剣などの武具が増えた。
- 大阪府南部で須恵器の生産が開始された。
- 北部球種で横穴式石室が出現した。
後期および終末期
- 多数の横穴式石室が築造された。
- 関西地方で埴輪が減少したが、関東地方では盛んになった。
- 群集墳が各地に出現した。
和歌山市の古墳時代
紀の川
和歌山市は紀の川の河口に位置しています。その一級河川は紀伊半島の中央部の多雨地域から流れています。
縄文時代、紀の川が運んだ土砂により和歌山平野が形成され、その平野では弥生時代に稲作がはじまりました。
地理的恩恵
紀の川がもたらした環境面の利点は次のとおりです。
- 防波堤として機能する長い砂州の内側にある河口港。
- 水田用の農業用水
紀の川河口の港
古代の紀の川河口の地形は今日とはかなり違っていたことが知られています。 古墳時代、現在では西に流れている川は、砂の隆起部によって、南に流れを変え、現在の中心市街は河口でした。
1981年に、古墳時代に建てられた七棟の大きな木造倉庫の跡が、和歌山市内の紀の川北岸低丘陵地である鳴滝で発見されたました。その考古学上の証拠は、紀の川河口が港として使われたことを示唆しています。
実際、「雄水門(おのみなと)」という港の名称が、8世紀に成立した「日本書紀」に登場しています。
灌漑用水
紀の川南岸地域ではあ、現在「宮井用水」呼ばれている水田用の灌漑用水が長い間ずっと使われています。
考古学者の皆さんによれば、その施設は古墳時代②はすでに存在していて、和歌山平野は穀倉地帯だったということです。
紀の川北岸の古墳
紀の川北岸では、5世紀に、大阪府の岬町にあるたいへん大きなものを含め、いくつかの前方後円墳が作られました。 興味深いことに、次の6世紀に、南岸の岩橋で群集墳が現れました。
岩橋千塚古墳群
被葬者
岩橋千塚古墳群は、古墳時代に紀の川河口を治めた紀氏と密接に関係があると考えられています。
紀氏の家系の方たちは日前宮の宮司職を古代より代々務めておられます。
岩橋千塚古墳群の多くの古墳は6世紀に築造されました。その被葬者は紀氏の人たちとそれを支えた人たちであると考えられています。
岩橋千塚古墳群内の地区
岩橋千塚古墳群の広い地域はたいてい10の地区に分けられます。花山地区、大谷山地区、大日山地区、岩橋前山B地区、岩橋前山A地区、和佐地区、井辺前山地区、寺内地区、そして、山東地区です。
特別史跡に指定されている地域は、大谷山地区、大日山地区、岩橋前山B地区、岩橋前山A地区と和佐地区の一部(天王塚古墳)を含みます。
岩橋千塚古墳群の古墳が築造された期間
全体として、岩橋千塚古墳群の古墳は4世紀末〜7世紀の初めにかけて築造されたと考えられています。
しかし、頻繁に築造された時期は、場所ごとに異なると考えられています。
例えば、(岩橋)前山A地区では5世紀中頃から6世紀末まで築造されている一方、大日山地区の古墳は6世紀前半から中頃に築造されたと考えられています。
岩橋千塚古墳群の古墳の大きさ
岩橋千塚古墳群には二つの大きな前方後円墳があります。大日山35号墳と天王塚古墳です。両方とも86mの長さがあります。岩橋千塚古墳群で最大の円墳は直径が40m程度あります(寺内57号墳)。
岩橋型横穴式石室
岩橋千塚古墳群で見られる四つの形式
下記のように、古墳時代だけで埋葬施設の形式はかなり変化に富んでいます。
粘土槨
この古い形も岩橋千塚古墳群で見つかっています。
箱式石棺
二つ目は「箱式石棺」と呼ばれます。この形式には石室がありません。
竪穴式石室
三つ目の形式は「竪穴式石室」と呼ばれます。死者のためのスペースは「室」と呼ぶに十分あります。一人だけが安置されました。この形式は5世紀に盛行します。
横穴式石室
それから、石室に水平な通路が取り付けられました。この形式は「横穴式石室」と呼ばれます。必要ならば(時間をあけて)二人以上を安置することが可能になりました。石室は扉のような岩で閉じられました。この形式は5世紀に北部九州に出現し、6世紀にほかの地域でも盛んに築造されるようになったそうです。
来訪者が入室可能な石室
当然のことながら、岩橋千塚古墳群で訪問された方が入室できる石室はすべて横穴式石室です。竪穴式は少し狭すぎます。
岩橋千塚古墳群には歩いて入れる石室がいくつかあります。それらは無料で訪問者に開放されています。それらの多くは、博物館に最も近い前山A地区にあります。
入室可能な石室写真
岩橋型横穴式石室
岩橋千塚古墳群の横穴式石室の様式は他とまったく異なります。その違いは、築造材料、壁の構造、死者のための部屋の形式などにあります
岩橋千塚古墳群で使われた材料
岩橋千塚古墳群の石室築造で使われた材料はもっぱら結晶片岩です。それは薄い層に裂けやすい0変成岩の一種です。レンガのような平たい板に加工されたのちに積み上げられ、壁となっています。けれども、岩橋千塚古墳群ではモルタルのような材料は使われていません。
結晶片岩は岩橋千塚古墳群の園内で簡単にみつかります。遊歩道沿いにあちこちでその露頭が見られます。
傾斜した壁面
比較的に薄い結晶片岩の板を落ち送る技法によって、わずかに傾斜した内部壁面を作られています。
石梁と石棚
水平の岩でできた部品も訪問者の注意を引きます。石梁と石棚は石室の構造を強化していると考えられています。実際、ほぼすべての石室が約1,500年のあいだ元の形を保っています。
棺がないこと
棺は、大阪や奈良を含めた畿内地方の横穴式石室で見つかります。けれども、岩橋千塚古墳群では棺の部品が確認されていません。
北部九州の石室のいくつかでも棺が見つかっていないのは興味深いことです。古墳時代には、和歌山の紀氏と北部九州には関係があったのかもしれません。
先進手法
岩橋千塚古墳群の石室ではいくつかの先進技術が見られます。床面を清浄に保つ方法もその一つです。川原の小石が地面に敷きつめられています。また、多くの場合、小石の下には排水溝が設けられているそうです。