紀伊風土記の丘の概要
このページの内容
施設
(2025年2月14日更新)
-
名称 「紀伊風土記の丘」
- 入口の英語看板「和歌山県立の考古学と民俗学に関する博物館 紀伊風土記の丘」は端的でわかりやすい。
- 「紀伊」は和歌山地方を表す奈良時代以来の伝統的な地名。
- 「風土記」は、諸国の風土や産物などを記した奈良時代に官撰の地誌の名称。
- 「風土記の丘」として全国に16ヵ所ある考古学博物館の共通名称。
-
紀伊風土記の丘創立の経緯
- 考古資料などを保全し活用するために1971年に開館した。
- 戦後の高度経済成長期が始まっていた1960年代、道路建設や住宅開発のために、重要な歴史遺跡さえもが破壊されつつあった。
- 政府は、それらを保存する施策を採用し、その一つが「風土記の丘」という名称の歴史博物館を開館することだった。
- 本館建設には実業家・松下幸之助氏があり、「松下記念資料」と書いた看板が現在も正面に掲げられている。
-
本館の建物と施設
- 敷地は岩橋千塚古墳群に隣接。
- 1階に活動スペース・移設石室・各種展示物のためのピロティ
- 2階に国の重要文化財指定の埴輪、和歌山県内の飛鳥時代までの出土遺物、民具のための展示室。
- 本館の前に古墳時代に生育していたクスノキの幹(実物)
- 本館横に、新しく建てられた学習用の竪穴住居(竈あり)、体験用水田、移設遺跡など。
- 博物館本館の建物自体が登録有形文化財に指定を受けている。
- なお、現在、2028年(令和10年)の開館をめざして、新館増設の工事が進行中。
開館時間などの詳細は公式ウェブサイト「和歌山県立紀伊風土記の丘」をご覧ください。
常設展示
大きく分けると埴輪展示・歴史的遺物(通史)展示・民俗資料展示の三つで構成されています。(2025年2月14日更新)
-
埴輪とは
- 「埴輪」はもともと「粘土の筒」あるいは「粘土の輪」のほどの意味だった。
- 大きな空洞の土器で、古墳時代に古墳の上に並べられた。
- 古墳時代の初めに前方後円墳とともに出現した。
- 最初の典型的な形は円筒埴輪と壺型埴輪だった。
- それから、4世紀に家形、道具形埴輪、動物(鳥)形埴輪が出現し た。
- そのあと、5世紀に人物埴輪が出現した。
-
岩橋千塚古墳群で見つかった埴輪の展示
- 2003年から2005年にかけて、数多くの埴輪破片が大日山35号墳で掘 り出された。
- 発掘された埴輪は復元さると、それらの多くが岩橋千塚独特のものであることがわかり、重要文化財に指定された。
- 大日山35号墳は6世紀前半に築造されたものと考えられている。
- 展示されている埴輪の写真は本サイト内の 大日山35号墳出土のユニークな埴輪 をご覧ください。
-
和歌山県出土の歴史的遺物の展示
- 展示は旧石器時代から仏教寺院まで時代順に並べられている。
- その写真は本サイト内の 歴史的遺物 でご覧ください。
-
和歌山県内の民俗資料
- 県内で集められた近代以降の民俗資料が展示されている。
- 展示品は定期的に置き換えられている。
- その写真は本サイト内の 民俗資料 をご覧ください。
移築民家
本館の近くに和歌山県内各地から移設された四棟の木造民家が並んでいます。1971年に博物館が創立したときに移築されました。いずれも江戸時代に建てられました。(2025年2月14日更新)
-
旧柳川家住宅
- 海南市黒江より移設。
- 1807年に建築された商家。
-
旧谷山家住宅
- 海南市塩津より移設。
- 1749年に建築された漁家(海運業も)。
-
旧谷村家住宅
- 有川町より移設。
- 18世紀後期頃に建築された農家。
-
旧小早川家住宅
- 日高川町より移設。
- 18世紀後期頃に建築された農家。
写真は 移築民家の写真 をご覧ください。