古墳時代(和歌山)
紀氏(き うじ)とヤマト王権
7世紀以前の古代における三つの称号
岩橋千塚古墳群の被葬者のことを考えるには、三つの称号のことを知る必要があるようです。それらは「氏(うじ)」「臣(おみ)」そして「直(あたい、あたえ)です。よく次のように説明されます。
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氏(うじ)
- 古代におけるおもに同族血族で構成される政治組織。
- 同じ先祖から系統を引くと信じられた血族と非血族が集まり、社会的にまた政治的に最も有力な集団を形成した。
- 成員、一般人、そしてその集団に所属する低い階級の人々は首長(氏の上)に隷属した。
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臣(おみ)
- 有力豪族が称した三十以上の称号(姓、かばね)のひとつ。
- 臣の多くは第26代継体天皇以前の天皇の系統を引くとされるので、最上位の姓の一つか。
- 豪族「紀」も「臣(おみ)」を称した。
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直(あたい、あたえ)
- 「直(あたい)」も有力豪族が称した三十以上の称号(姓、かばね)のひとつ。
- 「臣(おみ)」が中央貴族に与えられたのに対して、「直」は地方豪族に与えられた。
- 地方行政府の首長(国造)の多くは「直」だった。.
紀氏(き うじ)
紀氏の本拠地は奈良盆地の平群地区にあったことが知られている。紀氏が高位の「臣」(上述)を与えられたことから、紀氏の面々はヤマト王権が確立されるとき重要な役割を果たしたにちがいないといえるだろう。
紀氏の三人が『日本書紀』に次のように述べられている。
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紀角宿禰(きのつののすくね、当時の「宿禰」は尊称)
- 応神天皇3年(392年頃か)、紀角宿禰を含む四人の宿禰が、日本の天皇に無礼だった百済の王を問責するために百済に派遣された。
- 仁徳天皇41年に、彼はふたたび百済に派遣された。
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紀小弓宿禰
- 雄略天皇9年(470年頃か)に、紀小弓宿禰と他の三人が新羅を征服するために朝鮮半島に派遣された。
- 彼は陣中で病死し、(和歌山市に隣接する現在の大阪府最南部にある)淡輪に埋葬された。
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紀大磐宿禰
- 小弓の子。
- 父の小弓が新羅で亡くなったと聞き、かれは新羅に向かい中心となる将軍かのようにふるまった。他の将軍は彼を怨み暗殺しようとした。
- 顕宗天皇3年(490年頃か)、小弓は朝鮮半島南部(三韓)の王になろうとし、百済の王は彼を朝鮮半島から追い出した。
『日本書紀』の記事は歴史上の出来事に基づいているとは考えられていませんがが、七支刀や好太王碑が示唆するように、4世紀と5世紀に関しては、記事に関係する何らかの事実が合ったのかもしれません。
紀氏と紀ノ川河口の役割
上記のように『日本書紀』で述べられている紀氏出身の三人は朝鮮半島における倭軍の指揮官か将軍のようです。言いかえると、紀氏はヤマト王権の軍事作戦を担当していたようです。さらに、紀ノ川河口は、紀氏が指導する遠征軍の 軍港として使われたと考えられます。
その推理は、次の考古学上の知見によって支持されます。
- 紀ノ川には港として機能しえた河口があったこと。
- 紀ノ川北岸の鳴滝にある大きな7棟の倉庫の遺構。
- 朝鮮半島のものと似ている鉄製の馬の冑が出土した大谷古墳。
- 半島のものと考えられる金製の勾玉が出土した車駕之古址古墳。
- 和歌山市に隣接する大阪府岬町にある二つの大きな古墳。
紀氏(き うじ)と和歌山
いま和歌山市に住んでいる多くの人々にとっては、紀氏がもともと奈良盆地出身だったということを認めることは難しいかもしれません。漢字「紀」は和歌山県域を表す字として長いあいだ使われているからです。例えば、県域の主要な川の一つは「紀ノ川」であり、「紀の国」「紀州」の両方が県域の伝統的な地名なのです。なので、和歌山の一定の人々は氏の名である「紀」はもともと和歌山の国名だったと考えているにちがいありません。
さらに、その国名には「紀」と同じ発音の「木」が7世紀まで使われていたことも広く受け入れられています。
その複雑な経緯についての私の推測の一つは次のようになります。
- 「木の国」を意味する「きのくに」が紀ノ川河口を含む地域にあった。
- ヤマト王権の軍事行動を担当する奈良盆地の豪族(名称不詳)が遠征軍の軍事港を建設するために紀ノ川河口に勢力を伸ばした。
- ヤマト王権は「きのくに」に勢力を伸ばした豪族を「きうじ」と呼びはじめた。これは、古墳時代中期(5世紀前半)だったにちがいないだろう。この頃は、漢字がまだ普及しておらず「音」だけが大事だった。
- 何かの理由で紀ノ川河口の軍港が不要になったとき、紀氏の主要な者は奈良盆地にもどった。これは、5世紀末だっただろう。「きうじ」の人々は好ましい漢字「紀」を自分たちの名前に採用した。彼らは後に大和朝廷の貴族になった。
紀氏(き うじ)の系統を引く二つの豪族
岩橋千塚を考えるとき、5世紀にヤマト王権の軍事行動で活躍した紀氏がその後に二つの系統に分かれたことを理解することは重要でしょう。一つは奈良盆地の紀臣(きのおみ)であり、もう一つは紀ノ川河口の紀直(きのあたい) です。
換言すれば、紀氏の直系子孫は奈良盆地に帰って「臣(のちに、朝臣)」となり、傍系(非血族だったかもしれません)の子孫たちは紀ノ川河口に残って「直」となったにちがいありません。
のちに、紀臣は大和朝廷の貴族となり、紀直は、現在の県知事のような地方官僚のトップに任命されたのです。
紀伊風土記の丘の公式ウェブサイトが述べるように、岩橋千塚古墳群が紀氏によって築造されたのですが、さらに詳しくまとめて言えば、岩橋千塚に数多くある6世紀に築造されたと考えられる古墳は、紀直とそれを支える人々によって造られたにちがいありません。
できれば、岩橋千塚、紀氏そしてヤマト王権に関係する歴史上の出来事をこのウェブサイトでさらに深く掘り下げたいと思います。
和歌山市の古墳時代
紀ノ川
和歌山市は紀ノ川の河口に位置しています。その一級河川は紀伊半島の中央部の多雨地域から流れています。
縄文時代、紀ノ川が運んだ土砂により和歌山平野が形成され、その平野では弥生時代に稲作がはじまりました。
地理的恩恵
紀ノ川がもたらした環境面の利点は次のとおりです。
- 防波堤として機能する長い砂州の内側にある河口港。
- 水田用の農業用水
紀ノ川河口の港
古代の紀ノ川河口の地形は今日とはかなり違っていたことが知られています。 古墳時代、現在では西に流れている川は、砂の隆起部によって、南に流れを変え、現在の中心市街は河口でした。
1981年に、古墳時代に建てられた七棟の大きな木造倉庫の跡が、和歌山市内の紀ノ川北岸低丘陵地である鳴滝で発見されたました。その考古学上の証拠は、紀ノ川河口が港として使われたことを示唆しています。
実際、「雄水門(おのみなと)」という港の名称が、8世紀に成立した「日本書紀」に登場しています。
灌漑用水
紀ノ川南岸地域ではあ、現在「宮井用水」呼ばれている水田用の灌漑用水が長い間ずっと使われています。
考古学者の皆さんによれば、その施設は古墳時代②はすでに存在していて、和歌山平野は穀倉地帯だったということです。
紀ノ川北岸の古墳
紀ノ川北岸では、5世紀に、大阪府の岬町にあるたいへん大きなものを含め、いくつかの前方後円墳が作られました。 興味深いことに、次の6世紀に、南岸の岩橋で群集墳が現れました。