古墳時代(倭、日本)
「古墳時代」
「古墳時代」の定義
参考図書:「いつ古代国家は成立したか」 著者 都出比呂志(2011年、岩波新書)
- 弥生時代後半、北部九州、吉備(現岡山県)、出雲(現島根県)、畿内(現大阪・奈良)、東海地方、関東地方のクニグニは独立していた。
- クニグニは争いとなり、その戦争の収拾がつかなくなったとき、卑弥呼が彼らの女王であることを宣言することによってその戦闘を終わらせた
- こうして、二世紀末に、日本で初めての中央集権国家である邪馬台国が西日本に成立した。
- それから、卑弥呼が没し、王のための巨大な墓、古墳が作られた。
- そのあと、権力者は引き続いて古墳を築いた。
- 古墳が作られた時代が古墳時代と呼ばれる。
- 古墳時代は三世紀前半から六世紀末までつづいた。
時代の順序
古墳時代までの時代の流れについての私の基本的な理解は次のとおりです。
- 旧石器時代、単一の島(古本州島)に暮らす人々は大型動物の狩りをしていた。
- およそ13,000年前頃、人々は温暖になった自然環境に適応しはじまた。それが(世界的には新石器時だと呼ばれる)日本の縄文時代の始まりだった。
- 縄文人は基本的に狩猟採集民だった。
- およそ3,000年前に、水稲耕作が朝鮮半島から北部九州に導入された。それが弥生時代の始まりだった。
- 特に西日本では、その栄養豊かな穀物のおかげで、人口が増えた。
- その結果、階層性を伴う村々が営まれた。その首長は農業生産、宗教儀式、共同体の安全に関する指揮をおこなった。
- それらの村々は次第に小さな独立したクニになっていった。
- 弥生時代の終わりには、強力な大きな国々が現れ、そのうちの有力な首長たちは、共通の利益(鉄など)のためにお互いに同盟関係を結んだ。
- 3世紀中頃、同盟国の王たちは、自分たちの同盟のシンボルとして前方後方墳を築造しはじめた。それが古墳時代の始まりだった。
古墳時代の四つの区分
古墳時代の区分と、その概略についての私の理解は次のとおりです。古墳時代終末期は飛鳥時代と重なります。
古墳時代前期
- 3世紀中頃から四世紀末まで
- とても大きな前方後方墳が奈良盆地に出現した。
- 埋蔵施設は竪穴式石室だった
- 服装遺品は鏡、玉、石器、鉄製農具、鉄器などだった
古墳時代中期
- 4世紀末から5世紀の終わりまで
- 日本各地で大型の前方後円墳が築造された。
- 副葬品として、馬具、甲冑、剣などの武具が増えた。
- 大阪府南部で須恵器の生産が開始された。
- 北部球種で横穴式石室が出現した。
古墳時代後期および終末期
- 6世紀から7世紀
- 多数の横穴式石室が築造された。
- 関西地方で埴輪が減少したが、関東地方では盛んになった。
- 群集墳が各地に出現した。
ヤマト王権
私の思い出
今から50年以上前、私の世代の中学生は学校で「4世紀の大和朝廷」と習いました。「古墳時代」という用語はまだ使われていなかったはずです。異なるご意見の学者もおられるようですが、「ヤマト王権」「古墳時代」という語が定着してきているようです。この50年間で、古代に関する研究が多くのさまざまなことを明らかにしてきていると言えるでしょう。
岩橋千塚古墳群はヤマト王権と密接に関係があります。その日本列島で最初の中央集権政府についての情報を集めておきます。
ヤマト王権の概略
- ヤマト王権は3世紀後半以降に奈良盆地で成立したゆるやかな連合。その王(大王)が天皇と呼ばれるようになったのは7世紀の後半。
- 8世紀中頃に使われ始めた国名との混同を避けるためによく「ヤマト」とカタカナで書かれる。「大和政権」とも呼ばれる。
- まず、奈良盆地南東部のいくつかのクニの王たちが、他の地域の王たちとの基盤となる連合を形成した。
地名「ヤマト」
- 古くは「倭」などと書き、「やまと」を呼んでいた。第43代元明天王(在位 707–715)の治世に、国名は好字二字を用いることが決められ、「倭」と同じ読みである「和」の字に「大」をつけて、「やまと」と読むようになった。
- ヤマト王権の拠点があった奈良盆地南東部はもともと「やまと」と呼ばれていた。757年に「大和(やまと)」が現在の奈良県にあたる地域の正式な国名となった。
クニの連合と前方後円墳
日本列島西部のクニがゆるやかな連合を形成し、定型化した前方後円墳はその連合の象徴であると考えられています。
このページの大型古墳一覧が示しているように、古墳時代前期に奈良盆地東南部へ大型古墳が集中したことを考慮すると、クニの王たちの同盟はきっとそこで始まったにちがいありません。
そのことが意味するのは、その連合が最初に奈良盆地内のクニだけで形成され、そのあと他の地方のクニの王たちがその最初のヤマト中心の連盟に参加したということでしょう。
その連合の目的の一つは、すでに「弥生時代の概略」で述べたように朝鮮半島から鉄を輸入することだったと考えられています。
さらに、私が疑問には次のような三つの疑問が浮かんできます。
- なぜその連合は奈良盆地で始まったのだろうか?
- 奈良以外のクニはどのようにあその同盟に加わったのだろうか?平和的にか、それとも武力を用いてか?
- 紀ノ川河口の勢力はどのようにいつその連合に加わったのか?
これらについての私の意見は別に項目をつくることにします。
なぜヤマト王権が始まったのは奈良盆地だったのか。
日本列島のなかでもっとも朝鮮半島に近い九州北部で最初にクニが発展したのかは理解しやすいことでしょう。けれども、なぜ倭国(古代日本)で最初の中央集権政府が奈良盆地で樹立されたのでしょうか。偶然の出来事ではなかったはずです。ここで奈良盆地に関して気になる次の二つの点を挙げておきます。
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地形的条件
- 四つの河川(佐保川、初瀬川、飛鳥川、そして葛城川)が奈良盆地の中央部で大和川に流れ込み、その水は大阪府の河内平野を通って大阪湾へと流れる。
- 盆地の中心部は氾濫原だが、その低地と周囲の山の間には扇状地が広がっている。
- 関西地方には、大阪府の河内平野を除くと、そのような高く乾燥した土地(高燥地)は他にないと言われている。
- 盆地には、津波の心配はない。
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地理的条件
- 奈良盆地からの九州北部への距離も関東平野北部への距離も約500km。奈良盆地は双方の地域の中間点にあたる。
- 奈良盆地から大阪湾への歩行距離は約40km、伊勢湾までだと約85km。このことは海路を含む流通網の配送拠点として奈良盆地が重要な役割を担えたかもしれないことを意味する。
どのようにヤマト王権が発展したかを解明する手がかり
奈良盆地の南東部でヤマト王権が成功裏に樹立されたあと、どのように日本列島のほとんどの地域での最高権威を確立したのでしょうか。
倭においても中国王朝を含む大陸においても倭国内に関する記録はほとんどありませんので、これは答えるのが難しい質問かもしれません。特に4世紀は記録がほとんど残っていませんので「謎の4世紀」と呼ばれるほどです。
2世紀以降にヤマト王権がどんなことをしたのかを解明する手掛かりになる手がかりは次のようになります。
どのようにヤマト王権が進展したかについての私の見立て
どのようにヤマト王権が進展したかについての手がかりが少ないことは、かえって古代史学習の面白さにつながっているのかもしれません。ここでも、直感的にいろいろ言ってみたくなるところですが、できるだけ冷静にかきます。
上記の手がかりや他の情報をもとにして、ヤマト王権の進展について考えた私の理解は次のようになります。新しくわきあがって疑問も加えておきます。
- まず、奈良盆地内のクニの王たちが寄りあって新しい同盟(ヤマト王権)の基盤ができた。これは前方後円墳がつくられるより以前のことだから弥生時代後期となるだろう。
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誰かひとりの強力な独裁者がいるというわけではなく、合議しながら課題解決にあたっただろう。そして、その過程の中で、役割分担が生まれ、王の中の王(大王)が決まっていったにちがいない。最初の大王が決まったのはまだ弥生時代だったにちがいない。最初の大王の墓が前方後円墳とすればそれは古墳時代だったといえるだろう。
- 現代でもおこなわれている農村の大きな寄り合いと言えば言いすぎだろうか。
- 大王の後継者選びはどのように行われたのだろうか。
- 「邪馬台国」との関係があるのだろうか。
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同盟の基盤ができたあと、朝鮮半島情勢への対応のためのより強固な組織とするために、列島各地のクニへの同盟加入の勧誘をしたにちがいない。
- 勧誘を受けた各地のクニの王たちは判断基準はなにだったのだろうか。
- 近隣のクニから声をかけたとすれば、紀ノ川河口のクニは早々に同盟に加入したのだろうか。
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そして、ヤマト王権は編入勧誘に同調しない各地の王たちを敵とみなして、武力での征服をすすめたにちがいない。古墳時代前期だったろう。
- ヤマト王権の軍事力はどれほどすぐれていたのだろうか。
- 兵士はどんな立場の人たちだったのだろうか。
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ヤマト王権は列島内の同盟化にメドがつくと、朝鮮半島への軍事進出を本格化させた。これもまだ古墳時代前期の終わり頃から始まったのではないだろうか。
- 朝鮮半島への進出の目的は鉄資源だけだったのだろうか。
- 朝鮮半島まで兵員を移動させるだけ輸送力はあったのだろうか。
- 軍事組織の内容はどのようだったか。また、どれほど統制がとれていだのだろうか。
- 紀ノ川河口の勢力も朝鮮半島へいったのだろうか。
- ヤマト王権の朝鮮半島進出企図は7世紀後半まで続いた。
これらの新しい疑問についても別に項目を設けて考えられればと思います。