弥生時代

弥生時代の総合情報

私は次のように学びました。

  • 弥生時代の概略
    • 米食生活とと金属器の使用が弥生時代を代表する二つの要素である。
    • 弥生文化
      • 弥生文化は九州北部で始まった。
      • この時代、縄文人と大陸からの人々との混血が進んだ。
      • 弥生時代を日本文化の出発点と見る人が多い。
      • 弥生文化は北海道と沖縄では発展しなかった。
    • 道具
      • 弥生時代に使われた土器は「弥生土器」と呼ばれる。
      • 弥生時代後半には、鉄製農具が農業生産を大いに高めたので、石器はもはや作られなくなった。
    • 社会
      • 栄養豊富な米はそれまでよりも大きな人口を支え、また水稲栽培は集団作業を必要だったので、弥生人たちは水田のそばの村で暮らした。
      • 農業共同体の社会は効果的に組織され、その首長は農業生産の指揮、豊作願う儀式、そして外敵に対する安全保障を担った。
      • 村々は「クニ」へと発展した。
      • そのクニ同士はときどき戦争を行った。天候不順で食料不足になったとき、他クニの備蓄米を求めて戦ったにちがいない。
      • 北部九州のクニが鉄の輸入を独占していて、他地方のクニは連合することによって、より多量の鉄を確保しようとしていたのだろ う。
      • その同盟は中国との朝貢関係を持つ一つの大きなクニに発展した。

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  • 弥生時代研究の歴史
    • 1884年、未知の形式の土器が東京の弥生町で見つかった。
    • 1936年と1937年、唐古・鍵遺跡で木製農具と収穫用の石器が見つかり、稲作文化があったことが確認された。
    • 1947年から1950年、登呂遺跡で、高床倉庫と木製農具をともなう水田遺構が見つかった。
    • 1951年から1954年、福岡県の板付遺跡で最古の弥生集落がみつかった。
    • 1978年、福岡県の板付遺跡で、最古の水田遺構が見つかった。
    • 1980年、板付のものより古い水田遺構が佐賀県唐津の菜畑遺跡で見つかった。
      • 菜畑遺跡では木製農具を製作するための大陸性の大型蛤刃石斧や片刃石斧が見つかっている。
      • 米、粟、大麦、小豆の栽培をともなう弥生文化が弥生時代の最初期の段階(現在、論争あり)で、九州北部から中国、四国そして近畿の一部に広がった。
    • 1982年、弥生時代中期の656枚の水田が青森県の垂柳遺跡で見つかった。
    • 1982年、青森県弘前の砂沢遺跡で弥生時代前期の水田遺構が見つかった。

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  • 弥生時代の区分
    • 弥生時代早期(前1,000から前800)においては採集がまだ主要な経済活動だった。
    • 米作りが弥生時代前期(前800から前400年)に定着した。
    • 弥生時代中期(前400から前50)には、王が率いるクニが生まれ、政治的なブロックへと発展した。
    • 弥生時代後期(前50〜後180)にはブロック間の争いが続いた。
    • 弥生時代終末期(180〜240)には、卑弥呼が王として君臨した。

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  • 弥生時代の始まり
    • およそ2,500年前、水稲農耕が朝鮮半島九州北部に導入された。それが日本の弥生時代の始まりだった。
    • 北部九州でのその先進的な取り組みのあと、水稲栽培は紀元前4世紀までに西日本に広がり、それから東日本に伝播した。
    • だから、弥生時代の開始時期は地方ごとに異なる。
    • 私の推測
      • その新しい農業に詳しい人々が大陸から移住したのかもしれない。
      • 縄文人はきっと大量の栄養豊富な穀物を見てすっかり驚いたにちがいない。
      • そして、ある人たちはその新しい農業の技術を獲得しようと決心したのかもしれない。

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  • 米と小麦粉の栄養価
    • (参考:「食品分析表」大修館書店 2016)
    • 玄米100グラムあたり、353kcalの熱量と6.8グラムのたんぱく質が含まれている。
    • 白米100グラムあたり、358kcalの熱量と6.1グラムのたんぱく質が含まれている。
    • 白米めし100グラムあたり、168kcalの熱量と2.5グラムのたんぱく質が含まれている。
    • 小麦粉(薄力粉)100グラムあたり、367kcalの熱量と8.3グラムのたんぱく質が含まれている。
    • 食パン100グラムあたり、265kcalの熱量と8.5グラムのたんぱく質が含まれている。

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  • 弥生時代の金属器
    • 世界の多くの場所では銅器が鉄器に先行したが、日本列島では銅器と鉄器の両方が同時に使われ始めた。
    • 弥生時代中期の初め頃、銅剣、銅戈、銅矛そして鏡が朝鮮半島から輸入された。それらの多くは実用品だった。
    • まもなく、銅鐸を含む祭器や装飾品として銅器が日本列島で作られるようになった。
    • 弥生時代後期、中国から銅鏡が輸入され威信材として珍重された。
    • 鉄器の種類
      • 斧、小刀、鉇などの工具
      • 鋤、鍬、鎌などの農具
      • 剣、刀、矛、戈などの武器
    • 日本列島でも鉄器は製造された。
    • 鉄器の多くは鍛造品だった。
    • 弥生時代後期、いっせいに鉄器が石器に取って代わった。
    • 鉄は朝鮮半島から輸入された.

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  • 弥生時代の銅鐸
    • 日本列島での水田稲作が始まったあと、その新しい農業とともに新しい宗教儀礼が朝鮮半島から導入された。
    • 弥生人たちは、その新しい儀礼のなかで銅鐸と呼ばれる銅器をつかって、豊作を祈った。
    • 日本列島ではおよそ400個の銅鐸が発掘されている。
    • 弥生時代中期と後期には近畿、愛媛を除く四国、山口を除く中国、福井、長野そして静岡に銅鐸は普及した。九州でも少ない数の銅鐸が使用された。
    • 弥生時代後期には、出雲(島根県)で銅鐸は姿を消した。
    • 弥生時代の終末期には近畿と伊勢湾地方を含む東海西部地方だけになった。
    • 銅鐸はもともと大陸では家畜が首からつるす小さな鐘であった。
    • 家畜を持たない弥生人たちはその銅器を祭器にとして発展させた。
    • 古墳時代が始まる直前、異なる二つの銅鐸形式が存在した。一つは近畿地方にあり、もう一つは東海地方にあった。
    • 二つの対抗する政治的なまとまりがその頃にあったと考えられている。

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  • 日本列島の弥生時代の国々
    • 中国前「」の正史である『漢書』地理志。
      • 紀元前1世紀ころの倭人社会は、中国王朝から「国」と認識された100余の集落連合から構成されていた。
      • その中には定期的に朝鮮半島の楽浪郡に朝貢したクニも存在した。
    • 『漢書』地理志に基づく私の推測
      • 紀元前1世紀にはすでに、九州と朝鮮半島南部の海路は確立していた。
      • 直線距離でおよそ200km、壱岐と対馬を経由して漕いで3日で、風があればもっと短時間で行けたのかもしれない。
      • 舟と航海術を持っていたはずだ。
      • 紛争などの記述がない以上、平和裏に行き来していたにちがいない。
      • 稲作導入からおよそ400年後、強力な首長(王)が存在し、クニをまとめていたのだろう。中国との外交を考えるほどであるから、社会も安定していたのだろう。
      • 朝貢の目的については、私には簡単に決めつけられない。

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  • 後漢への朝貢
    • 『後漢書』東夷伝。
      • 57年に、倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむいて光武帝から印綬を受けた。
      • 107年には、倭国王将帥等が生口160人を安定に献じた。
    • 奴国は今の福岡市付近にあったクニで、同市の志賀島からは倭の奴国の王が光武帝からさずかったものと考えられる金印が発見されているとのことである。

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  • 弥生時代の倭から中国王朝への使節のまとめ
    • 57年、倭奴国王が後漢に使節を送り、光武帝が印綬を授けた。
    • 107年、帥升を含む王たちが後漢に使節を派遣した。
    • 238年、魏が帯方郡を支配し始めた。
    • 239年、倭国女王卑弥呼が帯方郡と魏の都に使節を送った。魏の明帝(Emperor Ming of Wei)が卑弥呼に親魏倭王の称号と金印紫綬を与えた。
    • 243年、卑弥呼が魏王に貢ぎ物をした。
    • 245年、魏の皇帝が倭からの使節に物を与えた。
    • 266年、倭の女王台与が晋王朝に使節を派遣した。このあとの147年間、倭と中国王朝との外交関係はなかった。
    • 私の推測
      • クニ同士の争乱を終わらせようとしていた倭の王たちは、中国王朝からの後ろ盾を確かなものにすることによって、自らの立場を強くすることを狙っていたのかもしれません。

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  • 志倭人伝』
    • 「邪馬台国」
      • 王たちが70年から80年の間、王国を統治したが、そのあと、争乱が国内全体で長期間続いた。
      • 卑弥呼という名の女性が女王になったときその混乱状態は終わった。
      • 邪馬台国が列島内の他の国(狗奴国)と戦ったとき、帯方郡は使者を派遣した。
      • 女王卑弥呼が亡くなったあと、男が王となったけれども、国全体がその王には従わなかった。人々はお互いに殺し合い、1000人以上が死んだ。
      • 13歳の台与という少女が次の女王になったとき、国は治まった。

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  • 弥生時代の争いの証拠
    • 『魏志倭人伝』だけではなく、考古学資料が弥生時代の早い段階から争いがあったことを示している。
    • 縄文時代に狩りに使われた石鏃よりも大形化した人の殺傷に適した弥生時代の石鏃・銅鏃・鉄鏃。武器の出土数は弥生時代中期より大幅に増えた。
    • 傷を受けたり、剣の先が突き刺さったりしたままの弥生時代の人骨。そのような人骨は縄文時代の遺跡ではほとんど見つかっていない。
    • 弥生時代に発達した環濠集落と高地性集落。

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弥生時代の遺跡

  • (大いに参考にさせていただきました:都出2011
  • 纏向遺跡
    • ヤマト王権誕生の地である、奈良県桜井市で2009年に見つかった。
    • 大型建物群の遺跡
      • 建物Dは南北19.2m、東西6.2mの当時の最大規模の建物
      • 建物Cは南北約8m、東西5.4mで北面と南面の中央にそれぞれ近接の棟持ち柱が配置されている。
      • 東西に4棟連続してつくられている。
      • 軸線がすべての建物で一致している。
      • 同時に構築され、同時に廃棄されたと考えられている。
      • 柵を境に内郭と外郭に整然と分けられている。
      • 東西150m、南北100mの方形の屋敷地の可能性がある。
    • 弥生時代終末期にあたる三世紀前半と考えられる。
    • 祭祀が行われた可能性がある。2700個以上の桃の種とミニチュア土器、剣形木製品、黒漆塗の弓、竹製籠などが壊された状態で見つかった。
    • 卑弥呼の後宮だった可能性がある。

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  • 吉野ヶ里遺跡
    • 佐賀県にある弥生時代中期の巨大な集落遺跡。
    • そこで見つかったものは、40ヘクタールに及ぶ巨大な集落、二重の環濠に取り巻かれた大型の建物、見張り台と推定される塔、倉庫群そして大きな墳丘墓。
    • その墳丘には数基の甕棺が埋められていた。
    • その甕棺の中には青銅の短剣や装身具が副葬されていた。
    • その墳丘墓は リーダー一族の墓と考えられる。
    • 一般農民の甕棺は地面に直接埋められていた。

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  • 池上曽根遺跡
    • 1976年、大阪府の和泉市と泉大津市にある環濠集落遺跡が国の史跡に指定された。
    • 1995年、広さ約10ヘクタールの大きな環濠集落の中心部に、高床式の長さ20メートルの大型建物が発掘された。そして建物中央のすぐ南にクスノキの大木をくりぬいてつくった大型の井戸も発見された。
    • 年輪の分析からその建物の木材は紀元前52年に伐採され、紀元前の終わりに建設されたことがわかった。
    • その発掘成果は土器形式を含めた歴史的事実の実年代を決める大きな手がかりとなった。.

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  • 加茂岩倉遺跡
    • 弥生時代には祭りの道具として、象徴化された武器や楽器が使われた。
    • それらの祭器は北部九州の銅矛と銅戈、瀬戸内海東部沿岸の平形銅剣、畿内と東海の銅鐸、出雲地方の地域特有の中細型銅剣、関東の有角石器だった。
    • 1985年、島根県の荒神谷遺跡で銅鐸と銅矛が一緒に埋納されているのが見つかった。
    • 1998年、39個の銅鐸が荒神谷遺跡近くの加茂岩倉遺跡(弥生時代中期)で発掘された。
    • 出雲地方では地域特有の中細銅剣が行き渡っていたが、この地域のクニは北部九州と畿内からの二つの異なる祭器を受け入れたようだ。
    • このことは邪馬台国誕生以前の政治的緊張を示しているのかもしれない。

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  • 畿内の墳丘墓
    • 弥生時代中期、リーダーのための墳丘墓は、北部九州だけではなく畿内でも方形だった。
    • 瓜生堂遺跡(東大阪市)
      • リーダーのための方形墳丘墓は大きさが違う。
      • 大きいもの(二号墓)には同族と考えられる18人もの人が葬られた。
    • 加美遺跡(大阪市)
      • 弥生時代中期の大形墳丘墓が多く集合した墓域が見つかった。
      • 23基の木棺がその内の一つ(Y2号墓 長辺24m・高さ3m)には埋葬されていた。
      • Y2号墓では1人が中央に二重側板の木棺に丁重に葬られていた。
      • 子どもも木棺に葬られていた。
    • 畿内とその周辺では弥生時代終末期になると、リーダー一族の墓として、方墳だけではなく円丘墓も造られ始めた。

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  • 四隅突出墓
    • 弥生時代後期、特徴的な墳墓が鳥取県西部から富山県の日本海沿岸で発達した。
    • 弥生時代後期、特徴的な墳墓が鳥取県西部から富山県の日本海沿岸で発達した。
    • 四隅突出墓は1.5m程度の高さで、九州や畿内のリーダーの墓のようなリーダーの同族墓である。

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  • 楯築遺跡
    • 弥生時代前期、畿内を中心に方丘墓が普及した。一方では、瀬戸内海東部沿岸地域(岡山県、兵庫県、香川県)では、周囲に周濠をめぐらせた円丘墓が発達した。
    • 弥生時代後期末の3世紀に入ると、瀬戸内海沿岸の円丘墓が大型化した。
    • 岡山県楯築遺跡では直径43m、高さ5mの円丘の両側にもつ墓が発掘された。

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  • 二つの墓の形(円丘系と方丘系)
    • 弥生時代後期後半、倭では祭壇としての突起を持つ墓が共存していた。それらは円丘系と方丘系に分類される。
    • 前方後円墳の原形が畿内と瀬戸内海沿岸に、四隅突出墓の原形が日本海沿岸に、前方後方墳の原形が畿内、東海そして関東にあった。
    • 墓の形が連帯のシンボルであったことを考慮すると、小国による緩やかな同盟関係が北部九州、瀬戸内海東部沿岸、出雲から北陸、畿内、日本海沿岸、東海、関東の各地域にあったと考えられる。

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  • 邪馬台国
    • 弥生時代、水や土地をめぐる地域間の戦いを通じて権力構造が次第に大きくなっていった。
    • そしてついに弥生時代末に日本列島西部を治める強国が現れた。その国は邪馬台国と呼ばれている
    • 邪馬台国がどこにあったかははっきりしていない。
    • 「魏志倭人伝」に書かれていることから次のことがわかる。
      • 身分制があった。
      • 守るべき法律があった。
      • 租税制度があった。
      • 市場での流通があり、その流通を取り仕切る機関があった。
      • 地方には特別の監督官がいた。
      • 女王卑弥呼はシャーマン的な能力を持っていた。
      • 現実的な政治権力を行使する弟がいた。
      • 卑弥呼は魏と交流した。
      • 卑弥呼が住んでいた宮殿には望楼があり、その周りには柵列があった。卑弥呼を守る兵士が兵器を身につけて終日常駐していた。

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  • 箸墓古墳
    • 弥生時代、伝統的な前方後円墳形の墳丘が奈良盆地に存在していた。
    • 「魏志倭人伝」には卑弥呼の墓は(150mほどだったと考えられる)「径百余歩」であったと書いてある。このことは3世紀前半の卑弥呼の墓は従来のものよりはるかに大きかったことを意味する。
    • 古墳は出現当時から巨大だった。
    • 桜井市の箸墓古墳は最古のうちの一つである。全長は180m。卑弥呼の墓の最有力候補である。
    • 箸墓古墳の体積は弥生時代最大規模の楯築遺跡の100倍である。
    • 古墳が出現する50年前ころより、漢王朝からの鏡や鉄などの出土数がしだいに増加した。
    • 日本列島全域を治めたヤマト王権は多くの巨大な古墳が築かれた奈良盆地に成立したと推定される。

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