歴史 古墳時代
このページは私が学んできたことを蓄積・整理することを目的としています。詳しくは 私の理由をご覧ください。
区分
「古墳」と呼ばれる墳墓
専門用語「古墳」
「古墳」という言葉は文字どおり「古い墳墓」という意味ですが、多くの皆さんは毎日の生活場面ではその意味でお使いの琴でしょう。
けれども、その語が歴史学や考古学の分野で使われると、専門用語となり、「古墳時代に築造された墳墓」という定義になるそうです。他の時代に作られた墳墓はことなる名称で呼ばれるのだそうです。
日本の古墳の形
古墳にはいくつかの異なる形状があります。前方後円墳が代表的で、その他に、前方後方分、円墳、方墳などが続きます。
「前方後円墳」は。英語で「keyhole-shaped kofun(鍵穴形古墳)」と呼ばれますが、日本語では「方形部分が前、円形部分が後」という理解を表現していることになります。岩橋千塚古墳群では「前方後方墳」は見つかっておらず、大半が円墳となっています。
形と大きさ
私は古墳の形と大きさについての有力な説を次のように学びました。
- 古墳の形と大木社被葬者の社会階級と政治権力に基づいているにちがいない。
- 前方後円墳が最高位であり、以下、前方後方墳、円墳、方墳の順になっていたと考えられる。
- 同じ形の中では、古墳が大きいほど、政治的権力が大きかったにちがいない。
日本でいちばん大きな古墳
日本でいちばん大きな古墳は大阪府堺市にある全長486mの仁徳天皇陵です。全長486mです。仁徳は第十六代の天皇で、実在していたとすれば、4世紀末から5世紀前半にかけて在位していたと考えられているようです。日本にあるおよそ16万基の古墳のうち40基ほどが200mを越えているそうです。
「古墳時代」
時代の順序
古墳時代までの時代の流れについての私の基本的な理解は次のとおりです。
- 旧石器時代、単一の島(古本州島)に暮らす人々は大型動物の狩りをしていた。
- およそ13,000年前頃、人々は温暖になった自然環境に適応しはじまた。それが(世界的には新石器時だと呼ばれる)日本の縄文時代の始まりだった。
- 縄文人は基本的に狩猟採集民だった。
- およそ3,000年前に、水稲耕作が朝鮮半島から北部九州に導入された。それが弥生時代の始まりだった。
- 特に西日本では、その栄養豊かな穀物のおかげで、人口が増えた。
- その結果、階層性を伴う村々が営まれた。その首長は農業生産、宗教儀式、共同体の安全に関する指揮をおこなった。
- それらの村々は次第に小さな独立したクニになっていった。
- 弥生時代の終わりには、強力な大きな国々が現れ、そのうちの有力な首長たちは、共通の利益(鉄など)のためにお互いに同盟関係を結んだ。
- 3世紀中頃、同盟国の王たちは、自分たちの同盟のシンボルとして前方後方墳を築造しはじめた。それが古墳時代の始まりだった。
古墳時代の四つの区分
古墳時代の区分と、その概略についての私の理解は次のとおりです。古墳時代終末期は飛鳥時代と重なります。
古墳時代前期
- 3世紀中頃から四世紀末まで
- とても大きな前方後方墳が奈良盆地に出現した。
- 埋蔵施設は竪穴式石室だった
- 服装遺品は鏡、玉、石器、鉄製農具、鉄器などだった
古墳時代中期
- 4世紀末から5世紀の終わりまで
- 日本各地で大型の前方後円墳が築造された。
- 副葬品として、馬具、甲冑、剣などの武具が増えた。
- 大阪府南部で須恵器の生産が開始された。
- 北部球種で横穴式石室が出現した。
古墳時代後期および終末期
- 6世紀から7世紀
- 多数の横穴式石室が築造された。
- 関西地方で埴輪が減少したが、関東地方では盛んになった。
- 群集墳が各地に出現した。
ヤマト王権
私の思い出
今から50年以上前、私の世代の中学生は学校で「4世紀の大和朝廷」と習いました。「古墳時代」という用語はまだ使われていなかったはずです。異なるご意見の学者もおられるようですが、「ヤマト王権」「古墳時代」という語が定着してきているようです。この50年間で、古代に関する研究が多くのさまざまなことを明らかにしてきていると言えるでしょう。
岩橋千塚古墳群はヤマト王権と密接に関係があります。その日本列島で最初の中央集権政府についての情報を集めておきます。
ヤマト王権の概略
- ヤマト王権は3世紀後半以降に奈良盆地で成立したゆるやかな連合。その王(大王)が天皇と呼ばれるようになったのは7世紀の後半。
- 8世紀中頃に使われ始めた国名との混同を避けるためによく「ヤマト」とカタカナで書かれる。「大和政権」とも呼ばれる。
- まず、奈良盆地南東部のいくつかのクニの王たちが、他の地域の王たちとの基盤となる連合を形成した。
地名「ヤマト」
- 古くは「倭」などと書き、「やまと」を呼んでいた。第43代元明天王(在位 707–715)の治世に、国名は好字二字を用いることが決められ、「倭」と同じ読みである「和」の字に「大」をつけて、「やまと」と読むようになった。
- ヤマト王権の拠点があった奈良盆地南東部はもともと「やまと」と呼ばれていた。757年に「大和(やまと)」が現在の奈良県にあたる地域の正式な国名となった。
クニの連合と前方後円墳
日本列島西部のクニがゆるやかな連合を形成し、定型化した前方後円墳はその連合の象徴であると考えられています。
このページの大型古墳一覧が示しているように、古墳時代前期に奈良盆地東南部へ大型古墳が集中したことを考慮すると、クニの王たちの同盟はきっとそこで始まったにちがいありません。
そのことが意味するのは、その連合が最初に奈良盆地内のクニだけで形成され、そのあと他の地方のクニの王たちがその最初のヤマト中心の連盟に参加したということでしょう。
その連合の目的の一つは、すでに「弥生時代の概略」で述べたように朝鮮半島から鉄を輸入することだったと考えられています。
さらに、私が疑問には次のような三つの疑問が浮かんできます。
- なぜその連合は奈良盆地で始まったのだろうか?
- 奈良以外のクニはどのようにあその同盟に加わったのだろうか?平和的にか、それとも武力を用いてか?
- 紀ノ川河口の勢力はどのようにいつその連合に加わったのか?
これらについての私の意見は別に項目をつくることにします。
なぜヤマト王権が始まったのは奈良盆地だったのか。
日本列島のなかでもっとも朝鮮半島に近い九州北部で最初にクニが発展したのかは理解しやすいことでしょう。けれども、なぜ倭国(古代日本)で最初の中央集権政府が奈良盆地で樹立されたのでしょうか。偶然の出来事ではなかったはずです。ここで奈良盆地に関して気になる次の二つの点を挙げておきます。
-
地形的条件
- 四つの河川(佐保川、初瀬川、飛鳥川、そして葛城川)が奈良盆地の中央部で大和川に流れ込み、その水は大阪府の河内平野を通って大阪湾へと流れる。
- 盆地の中心部は氾濫原だが、その低地と周囲の山の間には扇状地が広がっている。
- 関西地方には、大阪府の河内平野を除くと、そのような高く乾燥した土地(高燥地)は他にないと言われている。
- 盆地には、津波の心配はない。
-
地理的条件
- 奈良盆地からの九州北部への距離も関東平野北部への距離も約500km。奈良盆地は双方の地域の中間点にあたる。
- 奈良盆地から大阪湾への歩行距離は約40km、伊勢湾までだと約85km。このことは海路を含む流通網の配送拠点として奈良盆地が重要な役割を担えたかもしれないことを意味する。
どのようにヤマト王権が発展したかを解明する手がかり
奈良盆地の南東部でヤマト王権が成功裏に樹立されたあと、どのように日本列島のほとんどの地域での最高権威を確立したのでしょうか。
倭においても中国王朝を含む大陸においても倭国内に関する記録はほとんどありませんので、これは答えるのが難しい質問かもしれません。特に4世紀は記録がほとんど残っていませんので「謎の4世紀」と呼ばれるほどです。
2世紀以降にヤマト王権がどんなことをしたのかを解明する手掛かりになる手がかりは次のようになります。
どのようにヤマト王権が進展したかについての私の見立て
どのようにヤマト王権が進展したかについての手がかりが少ないことは、かえって古代史学習の面白さにつながっているのかもしれません。ここでも、直感的にいろいろ言ってみたくなるところですが、できるだけ冷静にかきます。
上記の手がかりや他の情報をもとにして、ヤマト王権の進展について考えた私の理解は次のようになります。新しくわきあがって疑問も加えておきます。
- まず、奈良盆地内のクニの王たちが寄りあって新しい同盟(ヤマト王権)の基盤ができた。これは前方後円墳がつくられるより以前のことだから弥生時代後期となるだろう。
-
誰かひとりの強力な独裁者がいるというわけではなく、合議しながら課題解決にあたっただろう。そして、その過程の中で、役割分担が生まれ、王の中の王(大王)が決まっていったにちがいない。最初の大王が決まったのはまだ弥生時代だったにちがいない。最初の大王の墓が前方後円墳とすればそれは古墳時代だったといえるだろう。
- 現代でもおこなわれている農村の大きな寄り合いと言えば言いすぎだろうか。
- 大王の後継者選びはどのように行われたのだろうか。
- 「邪馬台国」との関係があるのだろうか。
-
同盟の基盤ができたあと、朝鮮半島情勢への対応のためのより強固な組織とするために、列島各地のクニへの同盟加入の勧誘をしたにちがいない。
- 勧誘を受けた各地のクニの王たちは判断基準はなにだったのだろうか。
- 近隣のクニから声をかけたとすれば、紀ノ川河口のクニは早々に同盟に加入したのだろうか。
-
そして、ヤマト王権は編入勧誘に同調しない各地の王たちを敵とみなして、武力での征服をすすめたにちがいない。古墳時代前期だったろう。
- ヤマト王権の軍事力はどれほどすぐれていたのだろうか。
- 兵士はどんな立場の人たちだったのだろうか。
-
ヤマト王権は列島内の同盟化にメドがつくと、朝鮮半島への軍事進出を本格化させた。これもまだ古墳時代前期の終わり頃から始まったのではないだろうか。
- 朝鮮半島への進出の目的は鉄資源だけだったのだろうか。
- 朝鮮半島まで兵員を移動させるだけ輸送力はあったのだろうか。
- 軍事組織の内容はどのようだったか。また、どれほど統制がとれていだのだろうか。
- 紀ノ川河口の勢力も朝鮮半島へいったのだろうか。
- ヤマト王権の朝鮮半島進出企図は7世紀後半まで続いた。
これらの新しい疑問についても別に項目を設けて考えられればと思います。
紀氏(き うじ)とヤマト王権
7世紀以前の古代における三つの称号
岩橋千塚古墳群の被葬者のことを考えるには、三つの称号のことを知る必要があるようです。それらは「氏(うじ)」「臣(おみ)」そして「直(あたい、あたえ)です。よく次のように説明されます。
-
氏(うじ)
- 古代におけるおもに同族血族で構成される政治組織。
- 同じ先祖から系統を引くと信じられた血族と非血族が集まり、社会的にまた政治的に最も有力な集団を形成した。
- 成員、一般人、そしてその集団に所属する低い階級の人々は首長(氏の上)に隷属した。
-
臣(おみ)
- 有力豪族が称した三十以上の称号(姓、かばね)のひとつ。
- 臣の多くは第26代継体天皇以前の天皇の系統を引くとされるので、最上位の姓の一つか。
- 豪族「紀」も「臣(おみ)」を称した。
-
直(あたい、あたえ)
- 「直(あたい)」も有力豪族が称した三十以上の称号(姓、かばね)のひとつ。
- 「臣(おみ)」が中央貴族に与えられたのに対して、「直」は地方豪族に与えられた。
- 地方行政府の首長(国造)の多くは「直」だった。.
紀氏(き うじ)
紀氏の本拠地は奈良盆地の平群地区にあったことが知られている。紀氏が高位の「臣」(上述)を与えられたことから、紀氏の面々はヤマト王権が確立されるとき重要な役割を果たしたにちがいないといえるだろう。
紀氏の三人が『日本書紀』に次のように述べられている。
-
紀角宿禰(きのつののすくね、当時の「宿禰」は尊称)
- 応神天皇3年(392年頃か)、紀角宿禰を含む四人の宿禰が、日本の天皇に無礼だった百済の王を問責するために百済に派遣された。
- 仁徳天皇41年に、彼はふたたび百済に派遣された。
-
紀小弓宿禰
- 雄略天皇9年(470年頃か)に、紀小弓宿禰と他の三人が新羅を征服するために朝鮮半島に派遣された。
- 彼は陣中で病死し、(和歌山市に隣接する現在の大阪府最南部にある)淡輪に埋葬された。
-
紀大磐宿禰
- 小弓の子。
- 父の小弓が新羅で亡くなったと聞き、かれは新羅に向かい中心となる将軍かのようにふるまった。他の将軍は彼を怨み暗殺しようとした。
- 顕宗天皇3年(490年頃か)、小弓は朝鮮半島南部(三韓)の王になろうとし、百済の王は彼を朝鮮半島から追い出した。
『日本書紀』の記事は歴史上の出来事に基づいているとは考えられていませんがが、七支刀や好太王碑が示唆するように、4世紀と5世紀に関しては、記事に関係する何らかの事実が合ったのかもしれません。
紀氏と紀ノ川河口の役割
上記のように『日本書紀』で述べられている紀氏出身の三人は朝鮮半島における倭軍の指揮官か将軍のようです。言いかえると、紀氏はヤマト王権の軍事作戦を担当していたようです。さらに、紀ノ川河口は、紀氏が指導する遠征軍の 軍港として使われたと考えられます。
その推理は、次の考古学上の知見によって支持されます。
- 紀ノ川には港として機能しえた河口があったこと。
- 紀ノ川北岸の鳴滝にある大きな7棟の倉庫の遺構。
- 朝鮮半島のものと似ている鉄製の馬の冑が出土した大谷古墳。
- 半島のものと考えられる金製の勾玉が出土した車駕之古址古墳。
- 和歌山市に隣接する大阪府岬町にある二つの大きな古墳。
紀氏(き うじ)と和歌山
いま和歌山市に住んでいる多くの人々にとっては、紀氏がもともと奈良盆地出身だったということを認めることは難しいかもしれません。漢字「紀」は和歌山県域を表す字として長いあいだ使われているからです。例えば、県域の主要な川の一つは「紀ノ川」であり、「紀の国」「紀州」の両方が県域の伝統的な地名なのです。なので、和歌山の一定の人々は氏の名である「紀」はもともと和歌山の国名だったと考えているにちがいありません。
さらに、その国名には「紀」と同じ発音の「木」が7世紀まで使われていたことも広く受け入れられています。
その複雑な経緯についての私の推測の一つは次のようになります。
- 「木の国」を意味する「きのくに」が紀ノ川河口を含む地域にあった。
- ヤマト王権の軍事行動を担当する奈良盆地の豪族(名称不詳)が遠征軍の軍事港を建設するために紀ノ川河口に勢力を伸ばした。
- ヤマト王権は「きのくに」に勢力を伸ばした豪族を「きうじ」と呼びはじめた。これは、古墳時代中期(5世紀前半)だったにちがいないだろう。この頃は、漢字がまだ普及しておらず「音」だけが大事だった。
- 何かの理由で紀ノ川河口の軍港が不要になったとき、紀氏の主要な者は奈良盆地にもどった。これは、5世紀末だっただろう。「きうじ」の人々は好ましい漢字「紀」を自分たちの名前に採用した。彼らは後に大和朝廷の貴族になった。
紀氏(き うじ)の系統を引く二つの豪族
岩橋千塚を考えるとき、5世紀にヤマト王権の軍事行動で活躍した紀氏がその後に二つの系統に分かれたことを理解することは重要でしょう。一つは奈良盆地の紀臣(きのおみ)であり、もう一つは紀ノ川河口の紀直(きのあたい) です。
換言すれば、紀氏の直系子孫は奈良盆地に帰って「臣(のちに、朝臣)」となり、傍系(非血族だったかもしれません)の子孫たちは紀ノ川河口に残って「直」となったにちがいありません。
のちに、紀臣は大和朝廷の貴族となり、紀直は、現在の県知事のような地方官僚のトップに任命されたのです。
紀伊風土記の丘の公式ウェブサイトが述べるように、岩橋千塚古墳群が紀氏によって築造されたのですが、さらに詳しくまとめて言えば、岩橋千塚に数多くある6世紀に築造されたと考えられる古墳は、紀直とそれを支える人々によって造られたにちがいありません。
できれば、岩橋千塚、紀氏そしてヤマト王権に関係する歴史上の出来事をこのウェブサイトでさらに深く掘り下げたいと思います。
和歌山市の古墳時代
紀ノ川
和歌山市は紀ノ川の河口に位置しています。その一級河川は紀伊半島の中央部の多雨地域から流れています。
縄文時代、紀ノ川が運んだ土砂により和歌山平野が形成され、その平野では弥生時代に稲作がはじまりました。
地理的恩恵
紀ノ川がもたらした環境面の利点は次のとおりです。
- 防波堤として機能する長い砂州の内側にある河口港。
- 水田用の農業用水
紀ノ川河口の港
古代の紀ノ川河口の地形は今日とはかなり違っていたことが知られています。 古墳時代、現在では西に流れている川は、砂の隆起部によって、南に流れを変え、現在の中心市街は河口でした。
1981年に、古墳時代に建てられた七棟の大きな木造倉庫の跡が、和歌山市内の紀ノ川北岸低丘陵地である鳴滝で発見されたました。その考古学上の証拠は、紀ノ川河口が港として使われたことを示唆しています。
実際、「雄水門(おのみなと)」という港の名称が、8世紀に成立した「日本書紀」に登場しています。
灌漑用水
紀ノ川南岸地域ではあ、現在「宮井用水」呼ばれている水田用の灌漑用水が長い間ずっと使われています。
考古学者の皆さんによれば、その施設は古墳時代②はすでに存在していて、和歌山平野は穀倉地帯だったということです。
紀ノ川北岸の古墳
紀ノ川北岸では、5世紀に、大阪府の岬町にあるたいへん大きなものを含め、いくつかの前方後円墳が作られました。 興味深いことに、次の6世紀に、南岸の岩橋で群集墳が現れました。
朝鮮半島の国・地域
新石器時代終了以来、朝鮮半島の状況が日本に深く影響したことはいうまでもないでしょう。古墳時代においても、ヤマト王権は鉄資源を半島にたよっていましたから、半島における国々の勢力争いは日本の原始中央政府に直接に影響したのです。 ここで、それらの国々のことを簡単に復習しておきたいと思います。
私が学んだことの要点は次のようになります。
加耶諸職
概略
- 加耶諸国は1世紀から6世紀中頃にかけて存在した朝鮮半島の中南部(現在の慶尚南道とその周辺)の小さな国々。
- いろいろな名前で呼ばれる。
- この地域は鉄資源と良好な港に恵まれ、倭国(古代日本)はそこから船で鉄資源輸入した。
- 加耶諸国は新羅や百済に併合され、562年に滅亡した。
金官加耶
- 3世紀、慶尚道地域は馬韓の一部と辰韓の一部を含み、それぞれの連合体は十二 の国々で成り立っていた。そのうちの馬韓の一国が金官加耶に発展した。
- 金官加耶に関する記録はとても限られているなか、『三国遺事』に引用されている「駕洛国記」が貴重とのことである。
- 『三国史記』の記事をもとに、金官国の滅亡は532年のことと一般に考えられている。
- 金官加耶では、大成洞古墳群から多くの鉄鋌(鉄製品の材料)が出土し、5世紀半ばから6世紀初めの製鉄集落も見つかっている。その発展の基盤は鉄生産であったと考えられている。
百済
百済の概略
- 四世紀半ば,馬韓北部に成立した。
- 四世紀後半(366年か367年)に、百済と倭とが、軍事的同盟関係に入ったと一般的にみられている。それを記念して作られたのが七支刀である。その関係は基本的に6世紀初めまで続いた。
- 475年に、高句麗に圧迫され半島西南部のへ熊津(ゆうしん、ウンジン)に移動した。
- 538年に、泗沘(しび、サビ)に遷都した。
- 王族は高句麗と関係があるといわれている。
- 百済は、日本との関係が深く、仏教など大陸文化を伝えるなど,日本古代文化の形成に大きな影響を与えた。
- 660年に唐・新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされた。
七支刀
- 奈良県天理市石上神社所蔵の古代の鉄剣。長さ75㎝。刀身の左右に三本ずつの枝刀が出ている。
- 1870年代、石上神宮の宮司が剣の側面にわずかに光る金象嵌に気づき、錆を落としていくつかの文字を解読した。
- 369年、近肖古王の太子がその剣を作った。この年、百済は高句麗との戦争中で、太子は彼の軍隊の先頭に立っていた。
- 371年、百済の王と太子は平壌城を攻撃し、高句麗の王は戦死した。
- 『日本書紀』には372年に百済が七支刀を倭に献上したと書いてある。
- 百済は高句麗との決戦に備えて倭との同盟を意図していたようである。
新羅
新羅の概略
- 朝鮮最初の統一王朝。
- 4世紀半ば(356年)、朝鮮半島東南部の辰韓12ヵ国を統合して斯盧(しら)国が新羅を建国した。
- 7世紀半ば、新羅は唐と同盟し、百済と高句麗を滅ぼしたあと朝鮮半島の統一を達成した。
- 新羅は唐に倣って、政治の中央集権化をすすめた。
- 935年、敬順王(新羅最後の王)は高麗の王建に服従した。
高句麗
高句麗の概略
- 古代朝鮮の三王国の一つ。
- 扶余族の一支族の王、朱蒙が紀元前1世紀までに建国した。
- 313年、高句麗は楽浪群を滅ぼし、朝鮮半島北部を領有した。
- 427年、平壌に遷都。
- 高句麗は、4世紀末から6世紀にかけて、広開土王と彼の2代の後継者の時代に最盛期を迎えた。
- 668年、高句麗は唐と新羅の連合軍に敗れた。
好太王碑
- 414年、高句麗の長寿王が6.3mの石碑をたて、彼の父(好太王)の功績を刻んだ。次の内容を含んでいる。
- 399年、新羅が倭の侵入を理由に軍事介入を求めたこと。
- 400年、好太王は5万人の軍隊を派遣し、韓韓国まで倭軍を追い詰めたこと。
- 好太王は64の城と1,400の村を奪取したこと。
- 好太王が奪った城と村の大半は百済のものだった。
- 高句麗に敗れたあと、倭にできることは中国との代行関係に新しい道をみつけることだけだった。
倭と朝鮮半島との関係
倭と朝鮮半島との関係の概略
金官加耶をとりまく状況と七支刀や好太王碑に書かれていることを考慮すると次の事柄は事実だったと考えられます。
- 古墳時代以降、鉄を産出し輸出する加耶諸国は倭にとって生命線だったこと。
- 倭では古墳時代だったとき、高句麗、百済、新羅、そして加耶諸国の間には緊迫した関係が存在し、倭と朝鮮半島との関係も高かったこと。
- 4世紀の後半に高句麗と対峙していた百済が倭に七支刀を贈ったことを考えると、朝鮮半島南部における倭の存在感はそのころすでにかなり高かったこと。
- 5世紀初頭頃に倭がその軍事力を実際に行使したこと。
けれども、その二つの記録には倭の国内状況に関することが何も含まれていませんので、古墳時代の国内状況を探るには別の方法を使う必要があります。
朝鮮半島から日本列島に渡来したもの
古墳時代、倭(古代日本)には朝鮮半島からさまざまなモノやコトが導入されたと考えられます。手に入る情報をもとにそのリストを掲げておきます。
- 稲作
- 稲作の日本への到達経路にはさまざまな説があるが、考古学的には、中国の河南地方から北上して、山東半島から朝鮮半島南部につたわり、九州北部に伝来したとする説が有力。稲作は、弥生時代のあいだに本州北端まで広がった。
- 鉄器
- 約6,000年前にすでに隕鉄が使われていた。約4,000年前に、アジア西端部で、鉄の精錬が始まった。中国では前5世紀頃、精錬した鉄が普及した。朝鮮半島では、紀元前300年頃、鉄器が普及した。日本列島では、弥生時代に鉄器が導入された。
- 須恵器(すえき)
-
須恵器は、高温(1,000度以上)で焼成する陶製品。古墳中期、朝鮮半島加耶地方の技術者が渡来して生産が始まった。大阪府南部の陶邑(すえむら)で5〜6世紀に集中的に作られた。この技術が日本の陶磁器生産につながった。
- 竈(かまど)
- 竪穴住居の壁際に粘土で設置する竈は、5世紀前半に朝鮮半島から伝わり、炉のかわりに急速に広まった。
- 甑(こしき)
- 甑は米などの食物を蒸す調理道具。古墳中期に朝鮮系の須恵器製が登場した。祭のときなど特別な時に使われたらしい。
- 牛
- 弥生時代の遺跡からウシの骨などが見つかっているが、その数は少ないようだ。
- 牛が日本で広まったのは5世紀半ばだった。農耕、灌漑などの土木技術、乗馬などを伝えた朝鮮半島からの人々が牛も連れて来たとみられている。
- 馬
- 馬は古墳時代に朝鮮半島から導入されたと考えるのが妥当のようだ。4世紀の終わり頃、高句麗の強力な騎馬兵と戦ったあと、戦いに馬を使う必要がると倭の人たちは考え始めたにちがいない。
- 機織り
- 地機は朝鮮半島からつたわったと考えられているが、その時期はよくわからない。
- 暦法
- 暦は中国から朝鮮半島を通じて日本に伝わった。ヤマト王権は暦法や天文地理を学ぶために、僧を招き604年に日本最初の暦が作られたと伝えられている。
- 仏教
- 6世紀の中頃(538年説が有力)、欽明天皇の時に、百済の聖明王が仏像と経典を遣わしました。
- 土木技術
- 比較的大きな河川に堰を設けて取水する方法が確立するのは渡来人の新たな技術によるものと推測されている。
新しい技術を持ち込んだ渡来人
上述の朝鮮半島からの新しい技術は渡来人が日本列島に持ち込んだに違いありません。このことについて、私は次のことを学んでいます。
- 5世紀の倭では、朝鮮半島由来の技術が手工業を革新するために頻繁に使われた。
- 古代日本への最初の移民の波は4世紀後半から5世紀前半にあった。渡来人はその後も途絶えないで、7世紀後半の百済からの遺民や新羅からの難民まで続いた。
- 新しい開発技術を持つ渡来人もいたにちがいない。新たな土木技術の到来が5世紀にあることも考古学的に疑問の余地がない。
倭と中国王朝の関係
倭の五王
中国の正史には、5世紀の倭の五王による遣使についての記録が書かれているとのことです。
王たちには、日本列島だけではなく百済・新羅を含む朝鮮半島南部での軍事的支配権の行使を宋王朝に認めさせるねらいがあったと言われています。また、実際に、王たちは「将軍」として任命されています。
確実であったと考えられている年・王名・称号は次のようになります。
年 | 王名 | 称号 |
421 | 讃 | - |
425 | 讃 | - |
430 | - | - |
438 | 珍 | 安東将軍 |
443 | 済 | 安東将軍 |
年 | 王名 | 称号 |
451 | 済 | 安東大将軍 |
460 | - | - |
462 | 興 | 安東将軍 |
477 | - | - |
478 | 武 | 安東大将軍 |
倭の五王の比定
「倭の五王」の頃の天皇等名、その陵、現在の比定などをまとめておきます。
代 | 諡号 | 古墳(治定) | 比定など | 備考 |
---|---|---|---|---|
14 | 仲哀 | 岡ミサンザイ? 245m、藤井寺市 |
- | 倭建命の御子 |
- | 神功皇后 | 五社神 267m、奈良市 |
仲哀大后、応神の母 | 遠征して新羅を破る? | 15 | 応神 | 誉田御廟山 425m、羽曳野市 |
「讃」説あり | 仲哀の御子 |
16 | 仁徳 | 大仙陵 486m、堺市 |
「讃」・「珍」説あり | 応神の御子 |
17 | 履中 | 上石津ミサンザイ 365m、堺市 |
「讃」説あり | 仁徳の御子、大仙 陵より先の造営か? |
18 | 反正 | 土師ニサンザイ 290m以上、堺市 |
「珍」説あり | 仁徳の御子 |
19 | 允恭 | 市ノ山古墳 227m、藤井寺市 |
「済」に比定 | 仁徳の御子 |
20 | 安康 | 古城1号墳? 奈良市、中世の山城か |
「興」に比定 | 允恭の御子 |
21 | 雄略 | 高鷲丸山・平塚? 羽曳野市 |
「武」に比定 | 允恭の御子、ワカタケルか |
22 | 清寧 | 白髪山 115m、羽曳野市 |
- | 雄略の御子 |
23 | 顕宗 | 築山? 210m、大和高田市 |
- | 父は履中の御子 |
24 | 仁賢 | 野中ボケ山 122m、藤井寺市 |
- | 父は履中の御子 |
25 | 武烈 | 新山? 126m、奈良県広陵町 |
太子がいなかった | 仁賢の御子 |
26 | 継体 | 今城塚? 190m、高槻市 |
治定は太田茶臼山 | 応神の五世王 |